第十六夜 麻雀
弘前の空の下、きょうも雀牌の音が流れる
談話室の落書き
談話室は、各階ごとにあり、コンパや集会用のテーブル・椅子などが乱雑に置かれている。なかでも1階の談話室は、臨時宿泊(臨泊・リンパク)の場所として使われていた。臨泊というのは、寮生が旅行する際に他の学校の寮に宿泊するシステムで、北溟寮を含めて大抵の学生寮がそれを許していたようだ。宿泊費は100円程度だが布団類はほぼないのでシュラフなどを持参する必要がある。
臨泊により、北溟寮1階談話室で一夜の夢を紡いだ他校生は、壁・天井いっぱいに落書きを残していた。それに混じってこんな落書きがあったのを記憶している。これは溟寮生が書いたのだろう……。
『ああ、いま197×年1月25日午前7時36分 二講目は試験だというのに、ここでおれはまだ麻雀をしている。。』
そう、麻雀はまだ寮生の室内娯楽のトップに位置していた。
ルール
マルヒが入寮した頃、北溟寮1階のルールは、北海道直輸入の東北まわし。ふつう《南入》(ナンニュウ)になるべきところが、ここでは《入北》(にゅっぺ)となる。さらに《完全先付け》、《くいタンなし》というオールドスタイル。しかしこのルールはわれわれの世代を転回点にして、徐々に東南まわし・ありありルールに変化していった。麻雀まんがの影響も強かったと思う。
貧乏な学生同士、レートは点3(千点30円)がせいぜい。よってハコテンになっても負け金は900円である。他に全く金がないときには《コーラ杯》…一番負けた奴がコーラをおごる。ハリハリ点5…というのも。ハリハリはつけておいて月間で精算。この場合1階談話室で麻雀したすべてのハリハリ麻雀が対象となる。
階によってルールが違ったのが不思議なところだ。また、階をまたいだ面子による麻雀はあまりやられていなかった。牌、マットは2年に1回程度、新品を買った。費用は1階の麻雀プレイヤー全員がカンパする。それくらいの頻度で取り替えないと、老朽化が著しくいわゆる《ガン牌》ができるからだ。
卓が立つのはたいてい各階にある談話室だ。個室での麻雀は、薄いベニヤを通して隣室に騒音がひびきわたるためいやがられるからだ。とはいえ、長期休みの最中など寮に人がいない時など、個室で麻雀をするのもオツなものだった。
1階雀士列伝
コムケーと作業員のおじさん
その談話室。いちどに二卓動いてることも珍しくない。ギャラリーも多く、そのなかに寮生以外のギャラリーもいた。作業員の山崎さんだ。後ろから見ては
「いんや、そいだばまいね」
とか
「わだば、そんだらごとしねはんで、、」
とか言うのだが、なにせ純粋津軽弁で普通の寮生では歯が立たない。《上記の津軽弁もいい加減である》
下北半島の先端、大間出身のコムケーだけが、ちゃんと応対ができたといえる。コムケーは本人いわく大間で10年にひとりの神童。郷土の期待を担って青森高校-弘前大学とすすんだ。北溟寮で沈没したが。
「コムケーくん、コムケーくん」とその山崎さんも話がちゃんと通じるコムケーの事をかわいがっていた。
プアーな青春組
マルヒが4年生の時の1年生は、それまでにもまして、なぜか特に麻雀を好む連中が集まっていた。シロアベ、コハタ、ミヨシ、リョウ、タク、イセ、カメダ……朝から晩まで麻雀ばかりやってる彼等を見て愛想をつかしたカジやんは『麻雀ばっかりしてる プアな青春』と名づけた。
かれらの合い言葉ときたら
『まーじゃん (ここで一息あける) すっか?』
ハガさん・カガさん
マルヒが1年生のとき、4年生や5年生はとってもおっさんのように見えた。なかでも一階の長老格ハガさん、カガさん、トザワさんときたら、イナビトさんや、ボーヤミウラを相手に麻雀をする姿も風格に満ちていた。
「麻雀おわったら、シクタに乗ってシーメを食いにいこう」
などと業界用語で話していたのは、カガさんがズージャを好きだったからかもしれぬ。
シギョとWIMA
1階でだれが一番麻雀が強いか決めようじゃないか。そんな話が盛りあがったのは、いつものようにシギョやクロアベとだべっていたときだ。時あたかも、国会議員になる遙か前のアントニオ猪木がIWGPをぶちあげた頃。プロレス好きだったシギョが提案した名称がWIMA -World 1F Mahjong Association- (ワールド1階麻雀アソシエーション、略称だぶるあいえむえー)である。
このWIMAの主催により、全1階の麻雀プレイヤーをまきこんで、《雀鬼戦》が発進した。まさに、だれが鬼のように強いか勝負をつけようじゃないか、ということである。一位は雀鬼(じゃんき)、二位は準雀鬼(じゅんじゃんき)、名誉を求めての戦いであった。
……しかしだれだっけ?初代の雀鬼って。結構ドラマチックな展開だったような気がするが、うう、記憶にありません。
客人
なぜか麻雀をするためだけに寮に遊びにくる医学部の男がいた。ブンの同級生だったこの男は1階生から客人と呼ばれていた。そこで、彼が面子になってする麻雀のことを《客人麻雀》という。用例「昨日は客人麻雀だったんだよ。」
客人の本名を知らずに麻雀をしていた寮生もたくさんいると、私はにらんでいる。しかし、この客人、最後まで麻雀は下手の横好きだったと思う。こんな事を書くと客人はどこかで患者を診察しながらくしゃみでもしてるだろうか。かれの名セリフといえば「いまいち、いまにの石油相」。わかります?このギャグ。
マルクマ
マルクマは、その顔に似合わず、なかなかの麻雀強者だった。わたしも、マルクマにたっぷり絞り取られた。マルクマは大勝ちすると飲みにいって奢ってくれたりした。
「いゃあ、ぼくは、こうやって1階経済に貢献してるんですよ。」ってさ。
ジンクス
卒寮する前日、荷造りで余った引っ越し便の送り状を《点箱》の裏にはりつけた。後から「マルヒさんのステッカーが貼られた点箱にあたると全くつかないんだよ」と後輩にいわれた。まことに失礼である。
◆寮への臨泊を最大限利用して決行したのが81年九州ツーリングだった。
◆ハガさん・カガさんは1年生のマルヒから見ればおっさんだった。しかし彼らが1年生の時もあったろうし、マルヒがおっさんに見られた年もあったのだ。
◆《客人》は東京で開業医となってる。
《2020/9/16》