第二十四夜 バイク列伝

北溟寮大バイク時代の幕開け

愉しみのためのモーターサイクル

北溟寮にあるバイクといえばほとんど原付であった。……新聞配達用のカブ、とにかく学校の行き帰りを楽にしたいロードパル。。いわば実用バイク時代である。しかし時代は次を目指してまわりはじめた。それは遊びのためのバイクの時代。
 そんな中、78年の夏、マルクマとタワケのおっさんは、ふたりして北海道ツーリングを決行、函館、札幌、帯広と、カジやんの家やボーヤミウラの家に泊まり歩いた。
 同じ夏、マルヒは帰省先の松本で『寮から学校まで歩いて30分もかかる。ぜひバイクで通いたい』などといい加減なネゴを展開して、バイクを手に入れるのに成功。(そのかわりそれから2年間バイク代として毎月の仕送りから1万円ずつ天引きされたが。)

 夏休みあけ、オガサワラのホークとマルヒのGX250、2台の中排気量バイクが北溟寮のロータリーに並んだ。それは、北溟寮大バイク時代の幕開けだった。

北溟寮発 津軽を駆けたバイクたち

ホンダ ロードパル
ソフィアローレンが『ラッタッタァ』とCMをしていた名車です。対するヤマハはパッソル。ま、似たもの同士だね。

ホンダ CB50
最後までひっぱれば50cc最速ともいわれていた。エゾガワ号ほか何台も。その後、ホンダからMB5、カワサキからARがでても4サイクル車として人気高。

ヤマハ MR50
通称イモアール。これも何台かあったなあ。オナギさんが乗っていたイメージ強し。

スズキ TS50
ハスラーですね。マルクマのTSは赤のタンク。

ホンダ R&P
すっごいマイナーだけど忘れられないバイク。それはオリーブ色のR&Pに、あのタワケのおっさんが乗っていたからだ。マルクマとふたりで弘前駅から主なきR&Pを弟さんにむけて送りだしたのは悲しい思い出だ。

当時のバイク雑誌 『オートバイ』『モーターサイクリスト』『モトライダー』


ヤマハ GX250 
《バスバスバイク》とか、《プアマンズXS》とかエゾガワのおっさんにいいだけ揶揄されながらも、溟寮バイク時代の黎明期を飾る名車とマルヒは自負していた。しかし400ccと同一フレームを使用して250ccしか積んでいないのでパワー不足は否めない。岩木山ロードを登ると、きまって息をついた。

ホンダ CB250T HAWK
タンクはすでに湯たんぽではなかったがシートは座布団だったかも。足回りにホンダ自慢のコムスターホイール。孤高のライダーオガサワラの愛車でいつもピッカピカに輝いていた。

カワサキ Z250FT 
鳴り物入り250cc専用設計のフレーム。カワサキ魂炸裂、ふけのよさを誇るエンジン。エゾガワ、マルクマの両名が発売とほぼ同時にこのZ250を購入(エゾガワ号は銀、マルクマ号は緑)、北溟寮バイクツーリングクラブの中核となる。

ヤマハ RD250
かっとび2サイクル。性格そっくりの3階イハラのバイク。

ホンダ GL400 WING
通称t《ブゥイング》または《ブンバイ》。ブンの愛車は横置き水冷V2気筒というヘンな構成。おまけにシャフトドライブだって。持ち主に似て「押し出し」の強さは抜群。

スズキ GS400E
DOHC2気筒。GS400は溟寮ではコツチダ号とクロアベ号。
コツチダ号のほうは、バイトの末やっとこさ手に入れたものの、あっという間に盗難にあうというアクシデントに遭遇。溟寮バイク勢総員による必死のガソリンスタンド手配、主要交差点張り込みの結果、盗難バイク運搬中の私服警官にエゾガワさんが殴りかかるという結果で決着。

スズキ GT750
相性は《ウォーターバッファロー》、2サイクル・3気筒・4本マフラー・水冷750cc。当時ナナハン免許をとるには、大釈迦にあった県の免許試験場でこのくそったれ重たいバイクを起こす、という試練がまっていた。持ち主は、医学部のナス。

スズキ GSX400E 
エラの張ったタンク。GS400に比べるとマイナーな存在のGSX。ボーヤミウラが乗っていた。

カワサキ Z400FX 
伝説のインラインフォアエンジン。会津若松のユーキの家にいくと、いまでも(!)床の間に飾ってあると伝えられる。

ヤマハ RZ250 
超ピーキーエンジンを搭載、ナナハンキラーとおそれられた。自衛隊中退組のフルカワが購入。(例の『第十夜 溟寮お風呂事情』の自衛隊中退者とは別人です。念のため。)しかも、ゴロワーズカラーの350の発売と同時にフルカワはこちらに乗り換え。

ヤマハ XT250 
マルヒが買い換えた2台目はマルチパーパスバイクXT。岩木川の河原で遊んだり、寮の裏庭の土手を登ったり。空飛ぶサスペション=モノサス搭載。

1981年頃、北溟寮にあったバイクたち

弘前バイク事情

 弘前では雪の季節にバイクは乗ることはできない。そこで11月中旬頃から各自バイクを洗って自転車置き場の奥で冬ごもりさせることになる。自転車置き場の側面にはトタン板を立てかけて、なかに雪がはいらないようになる。その脇に1メートル以上の雪が積もる、それが津軽の冬だ。

2003年12月 北側サイドには、なぜか雪囲いのトタン板が2枚しか置かれていない。すでに我々の頃とは違うオペレーションとなっていた可能性あり。でも雪は同じ


 問題なのはこのタイミングで、あまり早い時期に冬ごもりさせてしまうと足がなくなって面倒なことこのうえないし、他のライダーからは軟弱、といって笑われる。かといってずるずる乗っていると厳しい寒さと雪のなか、なくなく洗車をするはめにおちいる。玄関脇の水道でバイクを洗うたびに、表面が凍っていく風景はあまり見たくないものだ。

 雪が融けバイクのシーズンが戻ってくるのは3月の終わり。春休みの帰省から寮にもどる頃、自転車小屋の雪囲いの奥からバイクをひっぱりだす日がくる。4ヶ月ぶりのエンジン音、アスファルトの上を走りだす瞬間、加速。。。その時の高揚した感覚を、20年もたった今でもしっかり覚えている。

 駅前のヨーカドーの裏にあった《今井モータース》は、北溟寮生ご用達のバイク屋だった。
今井モータースのおっちゃん、おばちゃん、ほんとうにお世話になりました。おっちゃんがBMWにまたがった姿、かっこよかったぜよ。

……俺のバイクを忘れているんでないかい とか なんであのバイクがないの、とか 間違っとる てな投稿 お待ちしています。この項、記憶違いとか多そうです。

 (July 24, 2001 未完・写真挿入予定・2003年1月現在、未だ完成せず。)

◆初稿から20年の歳月を経て、画像へのリンクを挿入できました。

◆今井モータースは、マルヒの卒業後大学の正門前近くに移転したとのこと。でも、もうすでにその店もない。ネットで《今井モータース 弘前市》で検索をかけてもなんの情報も残っていない中、ひとつだけヒットした。
それはヤマハが販売店むけにだしていたPR紙『ヤマハニュース』1974年7月号。マルヒが覚えているより少しだけ若い顔をしたおっちゃん、おばちゃんの姿がある。

https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/library/yamaha_news_jpn/pdf/index/133_YamahaNews_J_1974.pdf

《2020/10/21》

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