第四十夜 夏休みの思い出

北海道ツーリング

出発

極私的な夏休みの思い出を書かせてもらいます。今回はあんまり寮とは関係ありません。
1979年の夏。それは大学2年目の夏休み。
 その前年50ccのバイクで北海道ツーリングにでかけたクマさんとナカムラさんに刺激されて、ボクはその年、断然北海道にバイクで行きたい気分になっていた。当時の愛機はヤマハGX250-別名バスバスバイクである。なんでバスバスかというと、空冷垂直2気筒、走るたびに「ばすばす」とエンジン音を響かせていたからであり、これはエゾガワのおっさんの命名だった。

 寮祭が終わったあとのなんとなく白っちゃけた北溟寮。そこから北海道にむけてボクは単機、ツーリングに出発した。そんなときはセルじゃなくて、キックでエンジンをかけるに限るね。7月の終わりのことだ。青森から函館はフェリーで。

 翌朝、生まれてはじめて北の大地-北海道に上陸、駒ヶ岳を湖面に映す道南の観光地である大沼公園にむかった。昨年のツーリング部隊であるクマ・ナカムラコンビが暴走族テントに泊まったという因縁の場所でもある。

大沼公園

 夏の日の午後、ここで泊まることにしたボクは、湖畔のキャンプ場に寝ころんでいた。あたりは家族連れでいっぱい、楽しげな夏休みのキャンプ場の風景が展開されていたのである。その中にあって、ひとり寝ころがっていたボクのちょっとむこうに異様な集団がいた。20代、30代ぐらいの男ばかりの集団。夕方ちかく、すでにすっかりできあがっていた彼等は、近辺の家族キャンプに来ているファミリーとは全く趣を異にしていた。

 「なんだあの人たち…」
と思うまもなく、ボクに声がかかった。
 「おい、にいさん、あんたいったいなにしてんだ?」
 なにしてんだと、いわれても答えようがない。ツーリングの最中にここに泊まろうとしていただけだから。すかさず、二の矢がとんでくる。
 「ちょっと、こっちこい、まあ、いっしょにいっぱいやるべ」
 そう言われてはどうもこうもない。ボクもその連中の輪に加わることにした。

 ファミリーキャンプのまっただ中の異様な集団、彼等は大沼公園からクルマで30分ぐらいの漁村からきた漁師の一団だった。きょうはジンギスカンパーティと洒落こんでいたわけだ。赤々と燃やした火の上の鉄板の上には、北海道定番のマトンがたっぷり焼かれている。
 「ままっ、いっぱいやんねえ」
 もともと嫌いではないボクはこうして彼らの宴会に組みこまれていった。
 「にいちゃん、いっぱいやんなよ。ウィスキー?焼酎?」
 「は、あ、あの、ウィスキーを…」
 こういうと、なんと彼らはウィスキーをなみなみとついだ紙コップをさしだす。それを見て絶句したボクに
 「なんだ、濃いか?」
といい放つと、ビールをどぼどぼとつぎ足す。ふむ。ウィスキーのビール割りですか!

 「なあ、にいちゃん、内地から来たんだったら、内地の歌を歌ってもらわなくっちゃあなんめえ」そういわれて、ボクは一瞬だけ考え歌い始めた。ここでためらっちゃなんめえ。
 「♪しらかばぁぁぁ、あおぞらっ しろぉぉいくも
こぶしさくっ あのおかふるさとのぉ、ああ、ふるさとのぉそぉらぁ…」

 酔っぱらうほどに闇が濃くなっていく大沼公園のキャンプ場。おやじ達ときたら、その辺にキャンプに来ている奥さん連中にむかって卑猥な声をかけ始めている。ボクもすっかり酔っぱらっている。8時過ぎ頃だったろうか、突然、彼等は
 「さぁ、帰るべぇか」
といいはなち、何台かのクルマに分乗して自宅に戻っていった。酔っぱらったまま。「気をつけていきなよ」とボクに声をかけて。やるなぁ、北海道の漁師たち。

 シュラフにくるまり、湖ばたで眠りについた。テントは持っておらずシュラフだけ持ったツーリングだったのだ。とろこが小一時間もした頃か、ぽつんぽつんと、頬にあたる雨に目を覚ました。雨。仕方ない。キャンプ場のはずれの屋根のある四阿(あずまや)に寝場所を移すことにした。
 すっかり寝込んだ頃、ふらふらとさまよう光になんとなく目を覚ます。間髪いれずに悲鳴。「きゃぁぁぁぁぁ」
なんだ、なんだ?と思いながら再び眠りに落ちる。
と思いきや、また光、悲鳴「きゃぁぁぁ」

 なんと一夜の宿にした四阿の壁のむこうのベンチにカードが置かれていて、それは、地元中学生のキャンプの夜の肝試し用だったのだ。ひとり、ひとり、四阿にカードを取りに来る中学生、その懐中電灯に浮かぶ怪しげなな男、--すなわちボクだ。何人かの悲鳴のあと、先生が大きな懐中電灯と一緒に現れた。いきさつを説明すると、すぐわかってくれた。教訓。幽霊より人のほうが恐ろしい。

 中学生がこなくなった闇のなかでラジオをつけた。オールナイトニッポンだった。よしだたくろうがどこか愛知の小島でやったライブをえんえんと流していた…。

札幌へ

 あくる日、大雨大風のなか、いかめしで有名な森を通過、余市にむかった。ニッカの工場を見学するためである。大きなポットスティル(蒸留器)、薄暗い倉庫の中で眠る樽。長い眠りのなか、樽につめられたウィスキーはほぼ三分の一になってしまうのだという。そのなくなった文を『天使の取り分』という、とボクはその時初めて知った。

 すっかりあがった雨のなか、小樽を通過、札幌にはいる。札幌では大叔父さんの家に泊まらせてもらう。大叔父さんつまり、ボクの祖父さんの弟である。祖父さんたち兄弟は千曲川源流の川上村という山奥の村に生まれて、ふたりとも医者になって戦前から戦中にかけて満州鉄道の病院で勤務していた。敗戦後、この大叔父さんは「寒いところで生まれて寒いところで育った自分は寒いところがあってる」と当時全く親戚も友人もいなかった札幌に移り住んで開業した人物だった。地下鉄東西線の終点(当時)琴似駅のすぐそばに自宅兼医院兼薬局(薬局は奥さんがしていた)があったのだが、一日のお客さん2-3名という浮世離れした営業を続けていた。そんな大叔父さんもはじめて訪問したボクの姿を見て驚いたに違いない。髪はぼうぼう、ひげ、朝からの雨で服はドロドロ、おまけにバイク。
 2日かけて札幌の町を歩いた。北大・時計台・ラーメン横町・大通り公園・羊ヶ丘・地下街…みんなこのとき初めていったところだ。

 岩見沢、旭川をあっさり通過して、次の目的地は名寄だった。名寄には1階の一年生クロアベの実家があったのだ。4階のカズミを呼び出して名寄駅前の居酒屋で酒を飲んだ。酔っぱらってもどった家で、高校当時の写真集を見させてもらう。文化祭の時、行灯をつくって街中を練り歩くのだ、というのを妙に覚えている。

北のはて

 翌日、あいかわらずの国道40号線を勇躍、宗谷岬にむかった。途中、道路を渡る牛の群れに止められてやっぱり北海道だなあ、という気持ちになった。そのあたりだったろうか、稲作最北限 という看板を見たのも。稚内を通過すると、最北限の安売りだった。最北の小学校、最北のスーパー、最北の民宿、最北のガソリンスタンド。宗谷岬に並んだ売店からは、
 ♪りゅうっひょぅっ とけてぇ、はるかぜ ふいてぇ
とダカーポの歌がエンドレスに流れ続けていた。三角形のモニュメントの階段に腰かけてクロアベのおふくろさんがつくってくれたおにぎりを食べた。残念ながら樺太は見えなかった。
 
 さあ次はどうするべぇか、と考えてオホーツク沿岸を南下することにする。走るクルマもまばらな国道238号線。左手はどこまでも続くかと思われる荒涼としたオホーツクの浜辺だった。道路と海岸の間にときおり線路が絡む。こんなところ電車が走ってるんかいな、と思う。今は廃線になってしまった線路だが、もともとは浜頓別と興部(おこっぺ)とを結ぶ計画で、しかも結局結ばれなかった興浜北線および興浜南線がそれだ。

 朝、名寄をたってから一体何キロ走ったんだろう。シートにお尻がはりついたような気がした。道路地図で調べて紋別の町はずれにあるキャンプ場で泊まることに決めた。
 キャンプ場の駐輪場でひとりの高校生に話しかけられた。なんでも自転車で紋別から来ているんだが、その自転車がパンクしてしまって家に修理道具を取りに戻りたいんだと。キャンプ場から街中まで10キロくらいか。バイクで走れば15分位だろう。二人乗りして家まで往復してやった。
 彼らは中学時のクラスメイトで、女の子2人男の子5人でキャンプに来ているとのことだった。高校三年生。バイクで往復してくれたお礼にと夕食に誘ってくれた。
 「へえ、弘前大学?すげー、国立大学じゃないですか」
と妙に感心された。ボクがさしいれたビールなぞを飲みながら、彼らの高校生最後の夏がすぎていくのだ。
 ふと気がつくと、男の子が3人残っているだけになってる。女の子ふたりとそれにみあう男の子がキャンプ場のどこかの闇のなかに消えている。ボクが家まで乗せてあげた子は居残り組。悟ったような口調で火をかき回しながら、
 「いつもそうなんですよ」
という。消えた女の子の片方にはかない恋をしているのがすっかりわかり、ボクも少しだけ悲しくなる。
 彼らのテントのそばで地面に広げたシュラフにもぐりこんだ。蚊がひどい。シュラフの中に頭までもぐりこんでファスナーをあげる。すると暑くてひどい。
 起き抜けに水だけ飲んで出発した。まだ彼らのテントは静まりかえっていた。

 あっという間に網走の町につく。ここではいきたい所があった。その名も『ジャッカ・ドフニ』、北方少数民族の資料館である。ウィルタ族のゲンダーヌさんという人が運営していた。彼の書いた本を読んだことがあって是非いってみたかったのだ。なんとご本人がいてびっくりした。

 定番の刑務所にいって、原生花園にいって、摩周湖に。霧のはずがぴーかん。展望台から見ることができない湖にびっくりした。その晩は屈斜路湖のほとりのキャンプ場に泊まることにした。摩周湖ではあんなに晴れていたのに、雲行きが怪しくなってきてる。仕方がないので一人用のバンガローにする。なにせシュラフだけしか持っていない。テントがないのだ。

帯広畜産大学

 朝、ラジオで天気予報を聞く。ツーリング前の適当な計画では、知床を経由して根室にいこうと思っていた。しかし、どうも東にいけばいくほど天気が悪化するらしい。雨の中のツーリングほどつらいものはない。ボクは日和って帯広を目指すことにした。
 途中、足寄を通過。言わずとしれた松山千春の故郷である。人の数より牛の数のほうが多いことでも有名であったが。小さな町には「松山千春の実家→」などという看板があった。足寄付近の道路で、道路脇にあった赤のパトライトとサイレンがなってぴっくりする。なんでも居眠り運転防止のためクルマが通過するときに鳴る仕掛けなんだそうな。

 池田町に寄る。アイディア町長と名を馳せた丸谷金保町長のお膝元。駅前にはワイン型の噴水、町の中心部の歩道はワインカラー。丘の上に堂々とそびえ立っていたのが池田ブドウ・ブドウ酒研究所、すなわちワイン城だった。大勢の観光客のなか、レストランでステーキを食す。バイクで来ていたが、まあ、ワインを飲まなくちゃいけないだろう、ここでは。

 帯広着。クマ・ナカムラコンビは去年ここでボウヤミウラの家に泊めてもらっていた。しかし彼は今年まだ寮にいる。そこでボクは帯広畜産大学の寮に泊めてもらうことにした。地図で調べて広い大学の一角にある寮についた。
 「あの、臨泊させてもらいたいんですが…」
 「だれかこの寮に友人とかいますか?」
 「いえ、いません」
 「だめですねえ、それじゃ。許可できません」
 玄関にでてきた寮委員はやけに冷たい。それもそのはず、知らなかったのだがこの時、帯畜の寮委員会を握っていたのは革マル派だったのだ。そう『革命的防衛心』ってやつね。学生の間いろんな大学の寮で臨泊したが、断られたのはここと京大の吉田寮だけでした。あっちは関西ブントか。
 しかたねえ、どうすまいか、玄関の前に座って地図を眺めていたボクに外からもどってきた寮生が声をかけてくれた。《年寄り》だ。
 「どしたの?」
 「臨泊しようかと思ったんですが、寮委員会の方から誰か寮内に友人がいなくちゃだめって断られて…」
 「ふぅん、弘前から来たんだ。いいよ、俺が友人になってやる」
 いるんだよ、こういうおっさんが、どこの寮にも。部屋に案内され話を聞くと《シマレガンバレ》旭川東出身。何年か東南アジアのどこやらに留学し、またここに舞戻ってきたそうな。

 観光地を案内してやる という彼の誘いに甘えることにする。原付しか持っていない彼と一緒に走るのはつらそうなので、二人乗りにした。タンデムシートに乗せた彼に道案内されて幸福駅まで往復する。

 この夜、寮内で彼と飲酒した。彼のシンパの学生も1人加わり3人となる。
「せっかく帯畜にきたんだたから、おもしろい体験をさせてあげる」と彼らがいいだした。
 このあと、酔っぱらい3人は校内にある農園からあるものをとってきて「おもしろい体験」をした。それはもう時効だと思うが現在の帯畜の寮に迷惑がかかったらいけないので、ここでは詳細に書かない。知り合いには喋りまくったが。
 その「おもしろい体験」の真っ最中に、昼間ボクの臨泊を断った寮委員が部屋をのぞき、
 「またやってるんですか××さん、いい加減にしてください」
といやな顔をした。
 もちろん彼は、年下の・狭い了見しか持たない・革マルの寮委員の言う事なぞに聞く耳をもたなかったのだが。

 朝、見送られて出発、狩勝峠を経て、ふたたび札幌に。
 札幌では、大叔父さんの家から、カジヤンに連絡した。カジヤン曰く
 「札幌にきたらビール園にいかなくちゃだめですよ」
ご当地サッポロビール園は、時間制だった。「食べる」か「飲む」か、どちらかに絞らなくちゃいけない、とのカジヤンのご託宣を受けてもっぱらビールを堪能した。酔っぱらってカジヤンの家に泊めてもらった。そこで評判のカジヤンの妹に会う。

 余市のウィスキー・池田のワイン・札幌のビール。あとは日本酒が足らなかったよな、この時の旅。

ねぶた

 ふたたびフェリーで青森に戻る。時あたかもねぶた祭。青森ねぶた特有のラッセラーラッセラー、威勢の良いかけ声がひびいていた。道ばたの公衆電話から松本の実家に電話した。
 「いま、目の前をねぶたが通り過ぎているんだよ」と母親に話した。
 「よかったねえ」
 そんな風に松本にいる母親はいった。

◆グーグルマップで概算したところ1.600キロぐらいのツーリングだったことがわかりました。当時高速道路はまだこの地になかったので全工程いわゆる《したみち》ということになります。
◆余市のニッカ、池田町のワイン、札幌のビール、あとあったとすれば旭川の日本酒《北海男山酒造》とかか。

◆この夏は、このあと寮で何日かとどまったあと松本の実家までバイクで帰省した。行きは日本海ぞい。帰りはいったん東京にでて(甲府から中央道…はじめて高速に乗った)、東北大の明善寮で一泊。こっちも同じくらいの距離がありそう。

《2021/08/14》

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