第十七夜 アルバイト

はたらけど、はたらけど

マルヒの仕送りは、一時ある事情によって減額されることはあったが、基本的にはずっと5万円であった。この仕送りの額(4万~5万程度の仕送り)はだいたいの感触としてその頃の北溟寮生の平均値だという感じがする。そのうち1万円が食費(朝・晩)ふくむ寮費だとすると、残りの額が、本代やらガソリン代やら昼食代やら酒代やらに消費される。
 しかし、寮生のなかには家からの仕送りが一銭もない者もおり、彼らにとっては、よいアルバイト探し、および奨学金の獲得は文字通り死活問題であったと思われる。また、それほど生活に困っていなくてもいろいろな理由からバイトに精を出す者も多かった。

やっぱり夜明けは… 新聞配達

 寮生のバイトですぐに想い出すのは新聞配達であろう。常に寮の玄関前には何台かの《新聞配達用カブ》が置かれていた(たとえヤマハのメイトであっても、断然、新聞配達用《カブ》という)。このカブの特徴は、ハンドルの前に新聞の束を置くかごがついていて、さらにその前にとびたすようにライトをつけていることである。

【ホンダのHPによると正式にpressCubという車種ができたのは1988年のようです。すると当時のはカスタム仕様なんですね。】


 ユーキはこの新聞配達バイトをずっと続けていた。もちろん朝が早いので、ユーキときたらだいたい夜の8時半ぐらいには寝てしまう。だから、たまに彼と飲酒をしようと思うと、夕方5時ぐらいから始めて8時頃には終わらないといけない。ちなみにユーキは泣き上戸で酒が入ると「おれはよぉ、せつねぇ」などといいながら泣き出してしまう。
 弘前の冬は雪がたっぷりと降り積もる。もちろんそんな朝でも新聞は配達される。どうするかって?カブの後輪にチェーンをまくのだ。
 そのとおり、このバイトを続けている寮生はどこかまじめで強靱な意志がないと勤まらない。泣き虫ユーキにもそんなねばり強さがあった。

溺れる者の藁…家庭教師

 医学部と教育学部。このふたつの学部の共通点はなんだと思います?答えは、性格破綻者が多い、ではなくて、家庭教師というわりのいいバイトにありつける、です。
 我が子の家庭教師を探している親は、そのように考えるものなのですナ。大学本部前の掲示板にはりつけられているバイト募集のなかで《家庭教師》の口はたいてい、医学部生または教育学部生限定、ということになっていた。だから例えば、いまはアラバマで医者稼業をしているヤマムロも週に何回かは家庭教師のバイトにいけたのである。
 テストで偏差値が高い学生から選んだからといってよい家庭教師にあたる確率が多いとは思えない(決してヤマムロが悪い家庭教師だといっているのではありません。念のため)。まだ教育学部生のほうがモチベーションの関係でよい家庭教師になる確率が高いような気がする。しかしそれだって気がする程度のこと、ほかの学部から選んだって どっこいだと思っていた。でも人文学部の生徒には家庭教師のおはちが回ってこない。ペイがいいだけにくやしい思いをした。

オラたちのいちばんいい季節だなや…リンゴの花粉つけ

 さて弘前といえば、やはり、りんご関係のバイト、とこなくては話にならない。幸いりんご農園のバイトは農学部の学生限定ということはなかったし。
 桜祭りの喧噪も落ち着いたゴールデンウィーク明けのうららかな日、りんごの花粉つけのバイトが寮にまいこんでくる。うららかな日、と書いたがこれは気分の問題ではない。物理的に「りんごの花が咲いて」「天気がよくて」「風がない」、そんな5月中旬の数日だけしかりんごの花粉つけはできないのである。だからこの時分、弘前周辺の地域では花粉つけの作業のために、学校が休みになったり、自衛隊員がかりだされたりする、という話も聞いたことがある。北溟寮には、毎年毎年ずっとおなじみのりんご農家からこの花粉つけのバイトがはいっていた。
 りんご農園につくと、花粉がはいっているリポビタンDなどのドリンク剤の空瓶と、片方の端に《ふさふさ》がついてる長さ30センチほどの耳かきの親分のようなものが渡される。リポDの空瓶は、輪になった紐がゆわえられていて、その輪を首にかけるようになっていた。《ふさふさ》にビンの中の花粉をまぶし、りんごの花につけていく、という算段である。
 りんご園の端から、たいがいふたり一組で仕事を開始する。淡いピンクのりんごの花はいくつかずつひと塊りになって咲いており、そのなかのひとつの花にだけ、次から次へと、ちょんちょん花粉をつけていく。りんごの木一本につき、10分程度だろうか、全部の花に花粉つけをすませると、脚立をもって次の木に移動する。

 ゆるやかな傾斜のなか、どこまでも続く淡紅色のりんごの花森。
 北国の完璧な五月の青空、
 すこしだけ雪を残したお岩木山。

 コツチダならずとも歌い出してしまうのさ。

 ♪りんごぉぉぉぉのぉ はなびらがぁぁぁぁぁ
 ♪かぜにぃぃぃぃぃぃ ちっったよなぁぁぁぁぁぁ

 このバイトから帰ってきた日は、夜、ベッドに寝転がって目をつぶると、まぶたの裏にりんごの花が沢山うかびあがってきた。

りんごはなんにも言わないけれど…リンゴの収穫

 もちろん、秋になるとりんごの収穫のバイトもある。こちらは花粉つけに比べると多少は労働風になる。こぶりのバケツと脚立が収穫の際の小道具だ。


 いつもは何気なく見ているりんごのへた。あのへたがないと、りんごの商品価値はガクリと下がり、ジュース用になってしまうのを知っていますか?馬鹿げたことだが本当なのだ。だから、はじめて収穫のバイトにいく者はその点を必ず注意される。むりに力をいれて、ゴキっとむしり取るのではない。りんごの側にへたをつけたまますっと枝から離れる、そんな方向というのが必ず存在するのである。
 そうやって収穫したりんごを、こぶりのバケツにいれて木の周りに置いていく。そのバケツを運搬用の小さなトラクターというかエンジンつき台車のようなもので、運んでいく。
 もちろん、バイト代はお金で支払われたが、それ以外にも、市場にださせないようなりんごをいくつもいくつももらったものだ。市場にだせない、といえども ただ見栄えだけで、味には問題がないことはいうまでもない。

他のバイト

桜庭板金

トタン板をとんてん、とんてんやるバイトらしい。マルヒは桜庭板金のバイトについては、秋の終わりにやる学校の《煙突すえつけ》しかやったことがないので詳しくない。しかしエゾガワのおっさんの得意バイトであったので、名前だけはよく知っている。エゾガワさん流にいうと《サクラバ教授の板金学》ともいう。ちなみにサクラバ教授は、車を運転するとき「ローでいっぱいにひっぱて、そのままトップにいれる」のだそうである。いやはや。

貴婦人バイト

鍛冶町にある「貴婦人」という飲み屋のボーイの仕事である。飲み屋というか、おねえさんのいるような場所であったのでクラブといったほうがいいのかもしれぬ。マルヒには縁がなかったのでこちらもあまりバイト内容は知らない。ボーヤミウラの得意バイトで、たまには当時貴重だったオールドとかもらってきたような記憶がある。

八八バイト

はっぱちバイト。西弘に「八十八夜」ができたのは81年頃だったろうか。留年生が多いので有名な理学部数学科にいた3階のマッツァンはじめ、何名かがここでバイトをしていた。そういえばマッツァンは結局、卒業したのかなあ?

納豆売り

4階の哲人(変人かも??)マツヤマは納豆売りその他の面妖なバイトに手をだしていた。いまでは彼も埼玉で高校教師をしているという。いい先生になっていると思う。

肉体派…米かつぎ

 もうひとつ肉体系最強のバイトを。カガさん直伝の1階生伝統バイト、それは石川農協の米かつぎである。弘前の隣町である石川町にはライスセンターなるものがあって、農協組合員のお米がそこに集約される。持ち込まれたお米は60キロずつ袋詰めされて、低温倉庫に積まれていくのだ。
 まず精米機からでてくるお米を、袋にいれる。次にその袋の上の端をミシン様の機械で縫いつける。一俵60キロずつはいった米袋をさらに隣にある倉庫に運び込むのは、距離に応じてベルトコンベアと人力を併用する。
 これは本当に重労働である。なにせ60キロだ。地面においた米袋を、手カギをつかって、よいしょっと肩の上に担ぎ上げるのは相当なコツと力が必要で、素人には無理。短いベルトコンベアで肩の高さまでもちあげて、落ちてくる米袋を肩の上にのせる、という手段をとらざるを得ない。簡単のようにみえるミシンかけでも、両手で60キロの米袋を持ち上げなければいけない。
 低温倉庫に蓄えられていく米は壮観である。なにせ高さ6-7メートルまで積み上げるのだから。
 ここでわたしは農家出身者の底力をみた。宮城出身のシュドウといえばその細い体でひょい、ひょいと米を担いでいく。
 日給は6500円だったか。家庭教師以外では、これほど高給のバイトはなかったが、これほど体を酷使するバイトもなかった。たまに米の等級検査の日にあたった時のうれしさといったら。その日は、技官が鋭い剣のようなもので米の袋をつきさし、米のサンプル検査をおこなっていくのだ。これで半日は等級のスタンプを押していくだけの軽作業になる。
 マルヒは、その年の冬におこなわれた北溟寮の雪中サッカー大会の際、突然の腰痛で倒れ1週間寝込んだ。多分このバイトが遠因だと今でも思っている。

アルバイト?…献血

 緊急の手術がはいって輸血する血液が足りない場合、付属病院から北溟寮に電話がくる。
 『AB型の血液が8人分足りません、献血を行える寮生はいますぐ玄関にあつまってください』などという寮内放送がはいるのはそんな時だ。AB型、B型はともかく、A型にお呼びがかかる事は少ないし、そんな希な場合は往々にして飲酒していたりする。
その夜は珍しくA型の募集があり、飲酒もしていなかったマルヒはヤマムロと一緒に玄関に集まった。そのままクルマにのって付属病院にいき待機したものの、患者さんの出血が少なかったのか、結局、献血はしなくていい、という結果になった。
 売血は法律で禁止されている。しかしあくまで謝礼としてだが、患者の家族からいくばくかの金額が渡されることになる。病院側も、そんなふうにサジェストしているようだった。
 当夜は献血をしなかったにもかかわらず謝礼までもらったヤマムロとマルヒは、後日病院に献血にいくことになった。ところが、マルヒは血管が細いとやらで何回やっても針がはいっていかない。ベテランの看護婦さんに代わってようやく成功するものの、血の出が悪い。隣りのヤマムロは、とみればギタン・バタンと献血マシンが動いてるものの、マルヒ以上に血の出が悪く、管の中の血液が固まっていってしまうので看護婦さんが必死ではさみで管を夾んで固まらないようにしている始末。
『あなたたち、いったい何を食べてるの?』と看護婦さんに笑われてしまった。ちなみに、マルヒもヤマムロも決して痩せているとはいえない体型だったのではあるが。
 結局、この日ふたりあわせて200CC足らずという不名誉な成績で、われわれは付属病院を後にした。

(12 June, 2001) 

◆《桜庭板金》のアルバイトでストープ煙突設置のため当時女子高だった弘前聖愛高校の校舎にはいったことはよい思い出です。夜間の作業でした。
◆近年、リンゴの受粉にはマメコバチという蜂を使うようになったようです。

《2020/09/19》

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