第四十六夜 同室列伝

…そして暮らした部屋のこと

北溟寮は2人でひとつの部屋を使うのが基本である。その相手、すなわち同じ部屋を使うパートナーのことを「同室」-「どうしつ」と呼ぶ。よって弘前大学の伝統コンパ芸・『出身』を寮生が披露するにあたっては必ず「どぉぉーしつ」という一項目がはいるのだ。
 まあ西が丘あたりのアパートに住んでいた男子学生にも…「どぉぉーしつ」はいたみたいだが。というのも当時、弘前大学の学生は同棲率全国ナンバーワンとかまことしやかにいわれていたのだ。でも多分それはどこの地方大学にもある伝説だったのではないか。私見をいわせてもらうと、当時の同棲率っていうか、男女くっつき度ナンバーワンはできたばっかりの「筑波大学」だったと思う。これは文部省の施策の結果に間違いない。

 話がそれました。いまいちど確認すると当時の北溟寮一階の伝統バージョンの出身はこうなる。(「所属」・「現在」などがはいらないところがミソ。さらに「本人氏名」ではなくて「名前」という。)

 しゅしっんっ 長野県松本深志高等学校っっ
 弘前大学人文学部経済学科っっ×年っ
 弘前大学北溟寮 愛と誠の1階っ×××号室っ
 どぉぉしつっ ××学部×年 ××××
 なまえっ 兵藤 岳史っっ

 マルヒの5年間の北溟寮生活のなかで同室は4人……それでは彼らの話と・彼らとともに住んだ部屋の話をはじめよう。
 (※本稿まえに『第十五夜 寮室あれこれ』を見ていただくとより話がわかりやすくなります)

愛と誠の1階っぴんぴんろく号室っ どぉぉしつっっ ナカサコ・ウータンッッ

 マルヒが1年生として北溟寮に入寮したときの同室がナカサコ・ウータンである。ウータン氏はワシより1年上の人文学部文学科2年生。和歌山県の出身で、津軽の地においてもその穏やかな和歌山弁を使い続けていた。彼は当時から大変な「おっさん顔」をしており、これは後の話になるのだが、卒業後10何年かして会った時にも初めて会った時とまるで同じ顔であったことに驚きを禁じ得なかった。ま、ワシも人の事をいえた立場ではないが。

 その時のウータン氏とマルヒの居室は116号室=「ぴんぴんろく号室」である。風呂・食堂・洗濯場が近く かつ 南側ということでわりと人気のエリアではあった。反面、4階生などの風呂待ち--風呂にはいっている人数が多い時などに1階のどこかの部屋で待つこと--で変な時間に盛ったりしたことも確かである。
 マルヒはその西側のベッドを占有しており、薄いベニヤを隔てて隣の115号室には農学部のクドーさんが住んでいたと記憶している。

 116号室のあちらこちらにはもちろんそれまでも落書きはあったのだが、やはり血気にはやっていたのだろう、マルヒもまた多くの落書きをこの部屋に残した。2003年の再訪時にも残っていたのだが、緑のマジックで書きつけたランボオの詩、それに天井に残した「ヤクルトV1おめでとう!」みんなマルヒの仕業です。

 ウータン氏は関西モノの矜持として(?)、「なんといっても薄味が基本である」と常日頃からいっていた。まあそういことはあるんだろうなと思ってはいたものの、なんとウータン氏ときたら刺身まで醤油をかけないでそのまま食べるのである。
 『こうしたほうが魚の味がわかるんや、うまいんよ』とかいって。 うーむ。和歌山出身の人とも何人か一緒に食事したことはあるが、刺身に醤油を(百歩譲って塩を)、つけずにそのままうまいといって食べる男には後にも先にもウータン氏しか会ったことがない。
 関西人・ウータン氏は、もちろん納豆には弱かった。
 『わしゃのぉ納豆なんか食べられんかったんや、でもなあ、ここでは朝ご飯に食べんことにはやってられんからのお、醤油をどばどばかけて、味わからんようにして食べて克服したんや』
 なおナカサコさんに「ウータン」と命名したのは誰あろうこのマルヒで、長身かつ猫背ぎみ歩く彼の姿は誠にウータンという名前にふさわしいものがあった。さらにウータン氏には変な癖があって、歩く際には肘をちょんとまげ・指先をつきだし道路際の塀をなぞりながら歩くのだ。指紋はすでにない??
 びっくりしたといえば、誕生日に和歌山のお父さん・お母さんからウータン氏あてに電報が送られてきたことだ。長男だったので大事にされていたのかもしれぬ。ただ、マルヒとしてはそのような事をする親というのは想像外であった。ウータン氏には妹がいて、帰省のおりにマルヒの写真を見せたそうな。それは寝起きでパジャマ姿でぼけぼけの写真だったのだが、それを見たかの妹君は、
 『これだったらお兄ちゃんのほうが数倍いいわ』
と曰ったという。ウータン氏はうれしそうにそんなことをマルヒにいうお兄ちゃんでもあった。

 さて、まじめな勉強家のウータン氏の趣味といえば学内・寮内で配られるビラの収集だ。
 当時弘前大学には面妖な集団・「全学同」というのがいて激しく民青とやりあっていた。中核・4トロなどの新左翼からは中国派とよばれていたが、その実態は三橋辰雄というおっさんが主宰していたよくわからん党派で、最大のお題目が反・日本共産党だったのである。
 彼らは文化系サークル連合=文サ連なる組織を乗っ取って多くのサークルを支配し、入学してくる「純情」かつ「世間ずれしてない」学生を釣りあげては勢力を拡大していた。ターゲットになりやすかったのは、例えば「弘高・青高・八高とかのような学区トップ高ではなくて」・「青森県の各学区ナンバツーかスリーくらいの高校で」・「まじめによくお勉強してその中で一番になり」・「弘前大学の教育学部に浪人もせずにストレートで入学してきた」・「女の子」とかだと思う。一本釣りされると市内の合宿所に連れこみ「洗脳」する。だからといって、あのむちゃくちゃな主張を信じることができるとは……、ま、言葉もない。
 この人たちは次に「緑の党」を名乗り、また「日本ボランティア会」などと称しているようだ。東京や横浜のターミナル駅などで相当に怪しい人たちが・相当に怪しい募金活動を続けています。また葛飾区に荒野座とかなんとかいう劇団と歌声喫茶を持ち、相当に怪しい人たちが相当に怪しい歌と相当に怪しい芝居を繰り広げているらしい。(いいですか、ここ、現在進行形です。)
 この70年代後半なんと三橋辰雄の息子・三橋某が弘前大学の医学部(!)に在籍、ウータン氏とは同学年ということになる。いま東京で怪しい活動を続けている方々はこの時期に弘前でリクルートされた人も多いという。78-79年くらい、弘前における彼女ら・彼らは三橋息子を中心にいわば我が世の春を謳歌していたといっても過言ではないだろう。
 ウータン氏はその「全学同」vs「民青」で繰り広げられたビラ合戦のほぼすべてを収集していたのだ。他にももちろん、「中核派」やら「弘大寮連」やら、「人文闘」やら有象無象のビラすべてを。
 弘前大学を卒業後、つくばにある図書館情報大学にいってふたたび学び、今は千葉で図書館の司書をしているウータン氏の家の段ボール箱には、そのおり収集されたビラが大量に眠っているという。マルヒはいつか必ず見せてもらうつもりでいる。

 マルヒとウータン氏の同室コンピは2年間続いたが、80年の春、マルヒは116号室を出た。ウータン氏は居残って新しくシラトリボンズという男を同室に迎える。シラトリボンズはゴリゴリの民青。それからマルヒの足は116号室から遠のいた。

 ……116号室はその後何年かして一時期、中核部屋になったという。茶道部出身の中核派・中途入寮のタケガワさんが住んだとか。また85年11月におきた中核派によるいわゆる『浅草橋駅襲撃事件』で、116号室に住んでいた男が指名手配をくらったとか聞いた。

愛と誠の1階っ ひゃくにじゅうなな号室 どぉぉしつっっ ヒ・ロ・ヒ・トっ

 当時まだ存命であったやんごとなき人と同名(漢字は違ったが)のヒロヒトと同室になったのが116号室から移った127号室である。

 寮の部屋替えは原則的に1年に1回、新旧寮生が入れ替わる3-4月に行われる。場所の希望や同室の希望などの調整をして部屋割りを決めるのは階長のお仕事であった。階をまたいだ部屋の移動はあまり例をみなかったが、当人の希望と受け入れ階の階長の諒承があればたまには実施された。例えば2階から1階にうつってきたノーヤマ、4階から2階にうつったコツチダなどだ。
 4階から2階に移動した時すでにコツチダは4年生であったが、それまで割と沈滞していたように思えた2階の起爆剤となり、元気のよかったその年の2階の1年生連中の「ガキ大将」として黄金時代を築いたように思う。階をまたいだ移動にはそんな効果もあったのだ。コツチダがおおかたの予想と期待を裏切って4年間でめでたく卒業したときに同期入寮…北海道弁では ドンパ っていった。その言い方をすれば…ドンパなのに寮に残ったイタモトやマルヒのみならずコテツやオオツボ、コヤマたち2階のコツチダ・チルドレンも悲しんだものだった。

 127号室でマルヒが同室にむかえた始めての下級生・ヒロヒトは東京出身。
 ヒロヒトのニックネームは『ビリー』で、これはカジヤンが命名したもの。なぜかカジヤンはヒロヒトの頭のてっぺんがとがっている、といいだしたのだ。周りから見るとそんなでもなかったような気がするが、カジヤンが繰りかえし唱えていると、だんだんビリケン頭に見えてきた。ビリケン頭、すなわちビリーである。
 また当時「カスっ」といって人をけなすことがはやっていたが、そこから「カスヒト」と呼ばれることもあった。まあ、本人があまりいい顔しないんでこっちの名前はあまり流通しなかったが。

 ヒロヒトの本棚には相当渋い本-たとえば福田恆存とかが並んでおり、これにはびっくりしたものだ。例の旧仮名遣いだからねえ。おまけに囲碁が趣味。さらに知識人たる者、自分が住んでいる都市の歴史をしらなくちゃいけない、などと父親から教育されたとか。そんな風にヒロヒトはどこか古風でインテリたらんとするところがあった。
 とはいうものその半面たっぷりお調子者のところもあり、『いやいや、どしどし』などと意味不明な事をいいながら、くりだすギャグはくだらなすぎて今でも忘れられない。
 談話室で麻雀をしているときだった。こんな時は周りをいろんな人が取り囲み、あれやこれや茶々を出す。その時、あんまりヒロヒトがうるさかったんだろう、シギョあたりが、
 『ヒロヒトっ、うるぅっさいよ、おまえはよっ』
とかいったのだ。それを聞いたヒロヒトは
 『さるぅぅ うきゃきゃきゃきゃー』
といいながら猿のまねをして去っていった。一同は呆然とした。

 ある夜8時ぐらいだったろうか、珍しくヒロヒトもマルヒも部屋にいたとき、なぜか天井からぽつん、ぽつんと水が垂れ落ちてきたことがあった。溟寮生活5年のマルヒにしてからに、部屋の中にいて雨が降ってきたことはこの時をおいて他にない。
『なんだ、いったい?』
127号室の真上、227号室はいわゆる中核部屋だったのだ。その頃、中核は2階にふたつ居室を確保しており、ひとつは例のS先生とマルヒが闖入した部屋222号室で(参照『第二十夜 教官と寮』)、もうひとつが227号室。
 しかたがないから2階にあがり厳重に鍵がかけられた彼らの部屋をノックして、
 『あのお、下に水が垂れてんですけどぉ』
というとミドリヌマさんがドアをちょんとあけて顔をだし、
 『すまん、すまん、すぐなんとかするから』
という。ドアの隙間からちらっと見えた部屋の中はなぜか水びたしで、ぞうきんとバケツがあった。なにしてたんだろ、水溶性の紙を溶かす実験でもしていたんだろうか、あの時。

 127号室に住んでいた晩夏、例の心理学ねえさん事件がおこった。(参照『第十八夜 心理蛾会顛末』)マルヒは酔っぱけてベッドの上によこたわり、タンスの下にもぐりこみ、そこに落書きした。『おれは弘前には友がいない』云々。それから20何年か後の03年の再訪時に同じ場所に潜りこんだ。マルヒが住んだ127号室でやはり青春の時をすごしただれかが、同様のことや・あるいはそのパロディを書きつけていた。

 ヒロヒトは卒業してなぜか築地の卵焼き屋で働いたあと福祉関係の専門学校にいった。今は埼玉で工具関係の会社につとめているのだが、なんと、敬虔なキリスト者になるという意外性をみせた。神の恵みを。
 2006年だったか、ロンドンへの出張の帰り成田空港の手荷物受取ターンテープルのところで、ヒロヒトにばったり会ったのにはぴっくりした。彼もドイツからの出張帰りだったのである。

愛と誠の1階っ いちまるなな号室 どぉぉしつっっ わらいかめんっ

 両方とも壁--両壁の部屋は寮内をさがしても幾部屋もないと思う。壁がない部屋などないだろう?って、いやもちろん壁はあるけど、普通はペラペラのベニヤ壁なんです。でも107号室だけは構造上両方ともちゃんとしたコンクリートの壁で、1階ではここのみであった。
 北溟寮では一般的には日当たりがよい南側に人気があり、じめじめした北側は人気がない。ただ1年の時から3年間南側ですごしたマルヒは、この時(81年の3月)、明るい南側よりも暗い北側を希望した。そして上級生の特権をつかい両壁の107号室を確保したのである。
 北側の部屋にいったらやってみたかったこと、それは窓をドアにする、であった。早速マルヒは窓の外にブロックをつんで107号室の窓から部屋に直接ではいりできるようにした。

 107号室に迎えた1年生同室は群馬出身のワライ。あたかも笑い仮面のように、あるいは明訓高校の微笑三太郎のように、彼の顔は「ワライ」で固定されているのだった。
 夜、部屋の電気を消したあと同室同士はぼそぼそと話すことが多い。そんなおり彼はいつも、
 『そっすね、マルヒさん』
としかいわなかったので話が続かなかったのである。
 いまとなっては印象の薄いワライ仮面であった。夏休み明けにはワライ仮面を同室から追いだしてしまってマルヒは一人部屋になってしまう。

 両壁の107号室に一人部屋…。×××するには最強の環境であるがそれを活用したとはとてもいえない。ま、その年の冬に何度か女の子がマルヒの部屋にくるという想定外の出来事もあったといえばあったのだが。それはまた別のお話。

愛と誠の1階っ いちまるなな号室 どぉぉしつっっ すずきビーートぉ

 シギョが掲示板に投稿してくれたように82年の春から夏にかけて、マルヒはシベリア鉄道経由で欧州にいき・そのままアメリカに回る、という大旅行にでかけてしまった。

 その間107号室を守ったのは宮城県は塩竃の出身・すずきビートである。
今は「世界の」北野武--ツービートが『赤信号みんなで…』などのギャグで人気絶頂となったのは1980年。『オレたちひょうきん族』『ビートたけしのオールナイトニッポン』の放送が始まったのが81年、まさにその旋風の最中であった。すずきビートはとても、ビートたけしに似ているとは思わなかったが、そのおかっぱのような髪型だけは似ていたといえよう。

 82年の5月、まず弘前から横浜にむけて出発したマルヒを107号室の窓から大きく手を振って見送ってくれたビートの姿を思い出す。
 ビートの口癖は 
 『おれ、ちっともなまってなんかいねぇす』
 彼は塩竃独特の抑揚のない口調でそんな風によく話したものだ。大丈夫だって、しっかりなまっているって、ビート。
 1年生なのに107号室でひとり部屋を楽しんだビートだが、9月になってマルヒが旅行を終え寮にもどってくると退寮してしまった。

愛と誠の1階っ いちまるなな号室 どぉぉしつっっ なしっ

 その後はまたひとり部屋。
 あしたの朝には 北溟寮を去るという最後の夜、そこだけは消される確率が低そうな部屋の梁に

  『ひ.(1978-1983)』

 と書きこんだ。


 弘前を去る朝、何人かの寮生が玄関で恒例の万歳三唱をして見送ってくれた。玄関からは最後の2年間に住んだ107号室がよく見える。

(July 24, 2008  太平洋を渡る飛行機の中で記す)

◆ウータン氏は北溟おたっしゃ会の常連メンバーです。これぞ116号の絆。
◆ヒロヒトも時折おたっしゃ会に顔をみせています。敬虔なキリスト者に変化なし
◆ワライ仮面・すずきビートの両名は(早い時期に退寮したこともあり)その後の消息はわかりません。なにかのきっかけでここを訪れることがあったら、ぜひぜひ、連絡ください。

◆『怪しい集団』はまだ生き延びているようです。

◆「…シベリア鉄道経由で欧州にいき・そのままアメリカに回る、という大旅行…」の話は千夜一夜番外編『Somewhere in the Northern Hemisphere ’82』としてポツポツ書き進めています。

《2023/12/29》

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