第四十一夜 北溟寮・緑ヶ丘時代の黎明

OBからの投稿

きっかけ

なんの前触れもなく、青森在住の匿名希望の方から旧寮時代の北溟寮の写真が送られてきました。その画像は記念祭のデコレーションを施した旧寮の玄関前に寮生が並ぶものです。玄関のデコレーションに独国語とおぼしき文字が書いてありました。

マルヒはこの画像に下記コメントをつけて《画像資料館》に掲載しました。

『昭和初期の北溟寮の姿です。
この写真を送ってくれた方からの情報によると昭和9年すなわち1934年の秋の撮影だそうです。
ヒトラーがドイツで着々と権力を固め、アメリカ合衆国が大不況のなかであえぎながらニューディール政策をとりはじめた頃です。
玄関の飾りつけは記念祭用でしょうか。寮生がもっている地球儀?に書いてある『Billlomn』ってどういう意味なんでしょう?ひょっとして綴りミス?『Billion』のドイツ語表記?
旧制時代の北溟寮は学校に隣接して建てられていたので、ここは今で言えば文京キャンパス・教育学部のあたりということになりましょうか。
年齢的には18-21歳くらいが主力のはず。大人びて見えるのはなぜでしょうね。』

するとその後まもなく、以下のメールがわたし宛にありました。(画像を提供してくれた方とは別の方です)

『Billkomm ではなく Willkomm(en)”歓迎”のことです。ドイツ語です。すこしひげ文字らしいかな。
この写真は大学構内に寮があったころですね。 私は、桔梗野に寮ができて最初に入った、一年生、二年生の前者です。 この新寮ができたばかりのころは、まだ写真の寮がかもし出す雰囲気が少しありました。 いかにも寮生らしい雰囲気の学生が授業で時々見かけました。 桔梗野から大学へ通うのはいい運動でした。』


……うう、そんなことも知らず、恥ずかしい思いです。穴があったらはいりたい。たしかに当時の高等学校生がスペルミスなどするはずがありません。申し訳ありませんでした!

 メールをくれたその方はオオサワさんという大学のドイツ語の先生で、なんと北溟寮の大OBであります。メールには緑ヶ丘北溟寮の第一期生、とありました。そこですかさずお願いしました。
 『当時のことどもを、なにかお書きいただけませんか?』
それに答えてくれたのが、以下の文章です。

1966年新寮移転直後の北溟寮あれこれ

(ここから)

 私は、1966年4月から二年間北溟寮に居ました。個人主義指向の私は、経済的な理由から入寮しました。

 肌寒い4月3~6日?頃の間に新築になったばかりの寮に入りました。建物はできていましたが、外周りはまだ整備していたと思います。たしか、玄関の前あたりもコンクリートが固まっていなくて、板を渡していたかもしれない。門の左側には「つぼ」がきちんとはかたづけられないでいたと思います。

 同室の二年生は人文学部文学科の北海道出身の人。寮生の言葉は大体標準語で、青森市出身の私は全くの津軽弁、それも上磯地方ですからやや荒い。寮の中のこれまで体験したことのない雰囲気(?)が私を最初魅了しました。津軽弁を無意識のうちに抑えていました。

 部屋は二階のトイレ前でした。トイレに来る寮生がことごとく(誇張ではありません)、加山雄三の「君といつまでも」(あの「幸せだなあ・・・」というせりふつきの歌)を口ずさんでいるのです。(これで大体時代が分かりますね)

 寮から大学までの上がり降りの道は一部は舗装していませんでした。しかし、そのうち舗装になりました。弘前市長が自衛隊のための舗装したといううわさ話をあるとき聞きました(本当かしら?) 。

 半数くらいの寮生は自転車で大学へ通いましたが、徒歩の人たちもかなり多かった。私も徒歩の通学でした。その年の夏休みに青森港でアルバイトして自転車を購入しましたから、秋からは自転車で行きました。

 さて、寮に入っての最初の衝撃は、入寮セレモニーで台の上で、太鼓の音頭と野次の掛け声の中で無理やり水をどんぶりで飲まされたことです。

 その次は四月末ではなかったでしょうか、弘前城への花見でした。青森市には城はないので、お城の存在は私を少しうきうきさせました。何が何だか分からないうちに、二年生の方々が花見見物のしたくをしてくれていよいよ四時頃?五時頃?出発です。一階から四階まで、各グループに分かれます。各先頭の人はそれぞれ「北溟寮*階」といった文字を大きく記したムシロを掲げています。その他の我々は覚えたばかりの歌(何の歌だったか、「ガンチャラガンチャラ学校サボって土手町歩けばよー」だったか)土手町を行進して今泉書店前、角ハ(どう表記すのるのか分かりません)デパート前、白銀町をへて一番上の広場へ向かいました。通りを通る人たちが、「この連中は何をしているのか」という
反応をしていましたが、私たちはなぜか得意げでした。

 そこで飲んだのは多分お酒でしょう、肝心の桜は何も記憶がない。ただ大変寒かったことを今も思い出します。
他にも思い出はありますが、今日はこれくらいで終わります。

なお、たまたま読んだ高木恭造に旧制弘前高校北溟寮の断片的記載(多くはない)がありました。
「幻の蝶」など(津軽書房刊「高木恭造詩文集第三巻」)です。

(ここまで)

お願い

 わたしにとって未知の世代の方からこんなふうにメールをいただいて感激しています。この時代から水コンには水を用意してあるんですねえ…。

オオサワさんありがとうございました。また、思い出して書いてください。

みなさんも、自分の世代の北溟寮のこと/津軽のこと 書いてみませんか?
投稿お待ちしています。

(2003, Oct. 19)

◆奇しくもきょうは8月15日・敗戦記念日。この写真にうつる北溟の子たちは、この後あの苦しい戦争の日々を過ごすことになるのです。

◆弘前大学の図書館には旧制弘前高等学校や北溟寮についての資料とかは保存されているのだろうか?
 いつか時をみて訪問してみたい。
◆過去資料や思い出…時代を問わず募集しています。旧寮時代、桔梗野に移転した頃、我々の世代、それより後の世代、現役寮生でも…お気軽にコンタクトしてください。
《2021/8/15》

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