Somewhere in the Northern Hemisphere ’82 part1

Japan

地主のイヤガラセ

言い出しっぺはカジヤンだった。1981年の秋も深まった頃だろうか、二人ともすでに4年生だったが、来年も大学に残ること-すなわち留年を決めていた。そんな中いいだしたんだ、カジヤンは。『海外旅行に行こうぜ、ヨーロッパへ行こうぜ』って。
 沢木耕太郎の『深夜特急』が産経新聞で連載されたのは84年のことだから、この時より後。小田実の『なんでも見てやろう』は古すぎる、植村直己の『青春を山に賭けて』はちょと違う。大学生の《卒業旅行》という言葉はまだ一般的ではなかった頃のお話。

 マルヒのゼミ担当教官である中澤先生はこの年81年の秋から文部省のプログラムによってベルギー・ブリュッセルへ留学していた。先生がベルギーに旅立つ前マルヒはあるお願いをした。それは、必修科目であったゼミに落第点をつけてください、ということ。なぜかって?卒業に必要な他の単位はこの年に全てとり、《身軽な5年生》になる計画だったのだ。中澤先生は笑って59点をつけてくれた。
 実際にはこの《身軽な5年生計画》は、その名も「地主-じぬし-」という教官によって阻まれそうになる。こういっちゃなんだが、名前からして反動的だ。82年が明けての期末テストはマルヒなりに必死だった。これまでになく真面目に勉強し・中澤先生が不在のため臨時でいれてもらった鈴木ゼミ(『第二十夜 教官と寮』参照)で組織された《試験対策会議》にもちゃんと参加した。
 難関といわれたその地主教授の財政学(必修科目だったと思う)であるが、対策会議でマルヒの担当だったこともあり、たっぷり自信があった。ところがどっこい、試験終了から数日して寮の風呂にはいっている時、学部の後輩から『マルヒさん、地主先生から呼び出しがかかってましたよ』と教えられ驚愕した。
 次の日、地主教授の研究室に出頭すると『ふぅん、キミは北溟寮にいるのか』『キミは就職が決まっていないのかね?』とか『出身高校はどこ?松本深志?ああ、あそこね』とか言わずもがなの事を聞かれ、挙げ句の果てに『卒業したいのかね?』。マルヒはしどろもどろになって『…そ、卒業というか、単位が欲しいです』と答える。それには『だれだって、そりゃ、単位は欲しいだろ』とか散々イヤミを言われた。
 地主教授はマルヒの事情を知っていて《イヤガラセ》をしたとしか思えない。なんとならば、後から聞くと鈴木ゼミの他の学生・5人はすべて財政学でA評価をもらっていたのだ。彼らに対して試験直前に問題予想をして模範回答例を作成したのはマルヒだったにもかかわらず、だ。それなのに俺だけ落第点??
 結局、地主教授にレポート20枚提出で無罪放免、晴れてゼミ以外の単位を取り終えたのが82年3月である。
 ところがところが、同様の《身軽な5年生計画》を企んでいた農学部のカジヤンは、なんと出席をとる授業の単位取得に失敗、これで彼と一緒の欧州旅行はご破算となってしまった。

シベリア横断鉄道

 カジヤンと一緒にシベリア鉄道について調べていた。その頃もちろんインターネットなどない。どうすればいいか?われわれが思いついたのは鉄道雑誌だった。『鉄道ジャーナル』だったか『鉄道ファン』だったか、その中に小さな囲み広告で《シベリア鉄道で行くソ連》というのを見つけた。
 カジヤンはいけなくなってしまったがマルヒはしつこくその線を捨てきれないでいた。そこで春休み、松本への帰省前に東京に寄りその広告をだしていた『日ソツーリストビューロー』という会社を訪ねた。選択したのは『ソ連旅行・シベリア鉄道・片道パック』だった。
 横浜から船にのり津軽海峡を通過し・ナホトカへ。当時、軍港であるウラジオストックはまだ外国人には開放されていなかったのだ。ナホトカ発のシベリア鉄道の支線からスタートしハバロフスク・イルクーツクの二都市で途中下車して観光、そしてモスクワ。モスクワで解散したあと各自の計画に従って欧州各地へ、という内容だった。基本的にソ連内の個人旅行は制限されていた時代である。この旅行もナホトカからモスクワまでソ連の国営旅行社であるインツーリストの添乗員がついた。横浜からモスクワまで15日間、3食・観光つき。マルヒはモスクワ解散のあとヘルシンキへぬけるルートを選択した。ヘルシンキまでの交通費こみで片道パックの費用は16万円。 

今生の別れ

  今となってはお笑い草だが、この旅行から帰ってこられるんだろうか、と真剣に心配された、と同時に自分でも不安だった。
 マルヒはスーツとネクタイを着用して写真を撮ってもらい・初めてのパスポートを作成しに青森の旅券事務所までバイクででかけた。
 パックパック旅行の参考書として『地球の歩き方』という見慣れぬガイドブックを生協の書籍部で買った。ちなみに「ヨーロッパ編」と「アメリカ編」の2冊しかでていなかった。


 《ゴムバンド腹巻き・貴重品入れ》を母親に頼んで作ってもらった。
 《トラベラーズチェック》というものを初めて作った。すべてドル建て。バンクオブアメリカのだった。
 《ユースホステル》に泊まるだろう、とユースホステルの会員となり・インターナショナル学生証なるものも入手した。
 《トーマスクック時刻表》を東京の丸善で買い求めた。
 すべて『地球の歩き方』って本に書いてあったとおりだ。
 高校山岳部あがりのマルヒにとってリュックサックは身近なものだった。当時《アタックザック》と呼ばれた50リットルくらい縦型のMILLETのザックを買った。ザックの表側のちょうど真ん中のところにピッケルを止めるシュリンゲのリングがついていた。そこに、どこから手に入れたんだろう、10センチぐらいのアメデオ(『母をたずねて三千里』のおさる)のマスコットをくくりつけた。

 弘前では4月、新しい学年が始まり・新しい寮生が入り、マルヒにとっては5回目となる新歓コンパが・水コンが・観桜会がいつものように流れていく。マルヒの部屋にも新しい同室-鈴木ビート-がはいってきたが、でも、彼と一ヶ月も同室でいることはないのだ。
 乗っていたバイク、ヤマハXT250はイタモトに預けた。
 鈴木先生がゼミテンを集めて送別宴会を開いてくれた。二次会で西弘の『夕焼け小焼け』までいった時、したたかに酔っぱけた先生は、他のお客さんがいたにも関わらず『みなさん、聞いてください…このマルヒくんは…』と大送別演説をぶち、さらに万歳三唱。たいへん恥ずかしかったが、嬉しいことでもあった
 欧州ではブリュッセルにいる中澤先生のところを訪ねる予定である。前年に同じように海外留学し・この年に弘前へ戻っていた斉藤佳倍先生にそのことを報告すると、バックパック旅行など想像できなかったのだろう、『これを中澤先生にもっていってください』と大きな缶に入ったおせんべいの詰め合わせを渡された。持て余したマルヒは受け取ったその日の夜、寮生連中と一緒にそのおせんべいはおいしくいただいてしまった。ブリュッセルでそのことを中澤先生に告げると『みんなで食べちゃったの?ああ、そう。』と先生は笑っておっしゃった。

マリコのこと

 その冬からマリコとつきあっている気分でいた。まあでも、それはまた別のお話。
 弘前を発つ日には駅まで見送りにきてほしい、と頼んであった。5月14日午前7時前、あんまり眠ってないって様子で彼女は駅にきてくれた。恥ずかしげに彼女は「これを」ってさしだす。小さな封筒と手作りのサンドイッチの包みだった。
 弘前駅を離れた急行『しらゆき』金沢行きのガランとした車内で、彼女から手渡された封筒を開くと便箋に包まれた写真がはいっていた。写真をください、と前からお願いしていた。旅行のお守りとして持ち歩こう、と思っていたのだ。見ると、それは成人式の時に撮ったと思われる写真、彼女は振り袖姿でいつもよりすました顔をこちらにむけていた。
 この旅の途中で、二枚の便箋に綴られた彼女からの手紙をいったい何度読み返したことだろう、振袖姿の彼女の写真をいったいどれだけ見つめ続けたことだろう。
 最後の準備をしていた松本の実家に、思いがけず、もう一枚彼女からのハガキが速達で届く。出発の日の朝、日本を離れる直前に電話する約束をしてた。ハガキには、その日は都合が悪いのです と記されていた。
 横浜港から出発する前夜、八王子の叔父の家に泊まった。叔父の家の近所にあった電話ボックスから彼女が住む朋寮に電話をした。マリコの声が聞きたかった。寮の電話はお話中ばかり。なんどもなんども電話をして、やっとつながって、少しだけ言葉をかわす。
 冬から春に季節は変わったけれど気持ちは変わっていない、と信じていた。

出発の日

 1982年5月20日木曜日・雨。
 八王子から横浜線で東神奈川、東神奈川で京浜東北線に乗り換えて桜木町へ。桜木町からはタクシーで大桟橋にむかった。人生で初めての出国審査はあっけなく終わり、小さな免税店でハイライトを1カートン買い込んだ。
 われわれを乗せてナホトカに向かうのは『バイカル号』という船であった。出航時間は日本時間の午前11時だが船内の時間では12時ということになる。
 乗船がおわり出航時間が近づくとスピーカーから銅鑼の音がひびき、甲板上では船内クルーで組織されたアマチュアバンドとおぼしき面々が下手くそな『蛍の光』を演奏し始める。船べりの人々から桟橋にいる見送りの人々の間に色とりどりの紙テープが張られ、やがて船は離岸、そぼ降る雨のなかテープがちぎれていった。
 そんな風景のなか、自分にはもうサヨナラの感傷はなく日本から離れたという興奮が先立つ。真新しいパスポートに《出国》のスタンプが押されたのだ。

《2020/10/20》

Somewhere in the Northern Hemisphere ’82 part1” に対して2件のコメントがあります。

  1. 目黒ひろき より:

    ご無沙汰しています。
    この旅行記のアップを今日(2021/4/24)知りました。久しぶりの新作登場に興奮しました。、内容も、おもしろかったです。あの旅行がカジヤンとの計画だったこと知りませんでした。地主先生の件では笑ってしまいました。
    パート2のアップは、そろそろでしょうか。
    期待しています。

    1. マルヒ委員 より:

      2021年、ステイホームのGWを迎えて半年ぶりに本サイトのアップデートを開始しています。旅行記シリーズはこのあと、ソ連編・欧州編・アメリカ編となる予定です。

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