第二十夜 教官と寮

たまには先生だって寮を楽しみたい?

10.20事件

わたしが覚えている限り、マルヒが在寮した5年間で北溟寮に大学の教官が足を踏み入れたのは3回だけである。はじめは10.20事件の時(別項に書くつもりです)。乕尾学生部長が(とらおって漢字これであってたっけ?)寮長のブンと一緒に、警察の家宅捜査に立ち会って個室まではいっている。

炊公化

 2回目は、炊フ公務員化運動のさなか、大学の評議委員会のメンバーだった医学部の教授が寮食堂に来たときである。
 これは、大学との交渉中にだれかが、『寮生がどんなものを食べているのか、実際に寮にきて体験してみればどうだ』
と呼びかけをし、その医学部教授だけが応えたものである。
 呼びかけをしたほうは、寮食の水準の低さをアピールしたかったようだ。しかしこれは医学部教授のほうが役者が一枚も二枚も上、『たいへんよい食事ではないか』と簡単にいなされてしまった。

ゼミ

 3回目が今回のお話である。
 マルヒは《弘前大卒業》ならぬ《北溟寮卒寮》を自称しているのだが、例外的に専門のゼミだけはちゃんと勉強した。3年生になって選択した西洋経済史ゼミはなぜか人気がなく希望者は私ひとり。N先生と1対1であんまり西経史とは関係のないようなA・G・フランクとか、S・アミンとかの低開発国経済問題の本を読んでいった。
 そうこうしているとN先生は文部省のプログラムにより81年秋から1年間のベルギー留学が決まり、路頭に迷う事になったマルヒはもうひとつサブゼミという形でS先生の原論のゼミにも参加することになる。
 原論?そうです。マル経-マルクス主義経済学の原論『資本論』でありんす。こっちはひとつ下の学年と一緒のゼミ活動となったが、協会派1(北溟寮)、代々木1(北鷹寮)、代々木シンパ1(北鷹寮)、右も左もわからない普通の人2(下宿生)+わたしという構成だった。

 このS先生、酒がはいるととても陽気になってくださり(?)『おめーばかやろー』などと《ゼミテン》の頭をぽかすか殴りだすような元気のいい人だった。その時のS先生は、いまのわたしよりずっと年齢が下だったのだから、まあ、そんな元気もあったんだろうと思う。
 ある日、ゼミの終了後にS先生と一緒にしたたかに飲酒したことがあった。いつもの調子で断然、場がもりあがってくる。ヤマオカがぼそぼそと、寮の炊公化のこととか、最近の自治会のこととか話していたと思う。また、マルヒはマルヒで調子にのって、大学や文部省の悪口や、寮の政治状況の事をいろいろと話ていた。すると、なにを思ったかS先生は、
 『よし、これから北溟寮にあそびにいこう。いって中核派の諸君と話をしようじゃないか。』
 といいだした。
 わぁお。中核と別に仲が悪いわけではないマルヒでさえ彼等の部屋にははいったことがない。ましてや、ヤマオカが彼等とつきあいがあるはずがない。
 『先生、そりゃまずいよ、やめましょうや』
 『いいじゃないか、ボクがいきたいっていってるんだから』
 『それに先生、きっと部屋のなかになんかいれてくれないって』
 『いや、あいつらボクの研究室にもカンパめあてできたことがあるし。あの頭の悪そうな××とかボクが色々教えてやるよ』
 先生はぶちあげる。ふたりで必死に止めたが、ますます意気軒昂、やめる気配がない。
 結局、クルマにのって北溟寮に出陣、とあいなった、たっぷり飲酒していたのにもかかわらず。(していたから、か?)
 飲酒運転で寮に到着したS先生、玄関にあったサンダルをつっかけて、
 『じゃ、マルヒくん案内して。中核の部屋はどこよ』
 ってなもんだ。しかたがない、マルヒも観念して、階段にむかった。

 中核派はその当時、2階にふたつ部屋をもっていてた。どちらの部屋もドアを強化して頑丈なカギおよびのぞき窓を追加してある。本多書記長がテロられて日も浅く、革マル派と全面戦争になっていたかれらにとって、いかに本州の僻遠津軽の地でも、決して枕を高くして寝ていたのではなかろう。
 コンコンコンッ『ボクです、Sです。ちょっと遊びにきたんだけど、いれてくれないかな』
 ドアのすきまからのぞいたのはけげんそうなキノウエさんの顔。しかし、マルヒもふくめて、ちゃんと部屋のなかにいれてくれた。ヤマオカはいつのまにかいなくなっている。マルヒにしたって後にも先にも、中核部屋にはいったのはこの時が一回きりである。

 部屋のなかはキチンと片づいていた。一人部屋仕様で、真ん中にあったこたつにはいって、酔っぱらいのS先生はあれや、これやいっている。壁際の本棚には、さすがにというか、意外にというべきか、ちゃんとマルクス主義の古典著作が並んでいて、少しは(?)かれらも勉強していることがわかった。
 『だから君たちの剰余価値論に対する理解は…』
 って、先生、酔っぱらってそんなこといっても、仕方がないよお。

 次の日、学校で会ったS先生は、
 『ねえ、ボクどうして昨日、北溟寮にいったんだっけ?マルヒくんが無理矢理 連れて行ったんじゃないの?』

 マルヒが在寮中、教官が寮室にはいりこんだ2回、両方とも、普段は一般の寮生すら足を踏み入れたことがない中核部屋だったのはなんともはや皮肉な感じがする。

(June 26, 2001) 

◆N先生とは中澤勝三先生のことです。先生は、2011年3月、65歳という若さで逝去されました。マルヒにとってかけがえのない師でした。
◆S先生とは鈴木和雄先生。一昨年弘前から東京に戻った由。まだ弘前大とは関係しているようですが。この北溟寮訪問時、すでに鈴木先生は結婚されていましたが、それでも20代か。若かったんです。

◆文中でてくる《ゼミテン》はゼミナリステン(Seminaristen)略してゼミテン。いわゆるゼミ生のことです。この言葉はインターネットの情報によると一橋大学の用語とのこと。中澤先生は一橋の大学院で修士号・博士号をとり助手を勤めたあと弘前大学にきた方なので我々のことを《ゼミテン》と普通に呼んでいました。

《2020/9/22》

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