2003年冬弘前紀行《兵藤編》②

ひょんなことから、冬の弘前に旅行することになったふたり。それぞれが、それぞれ感じたままに、ひとつの旅をつづります。

 スノー・ヒロサキ・タイムスリップ・ジャーニー 

hirosaki

これが私の故里だ。さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと年増婦の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云う

-中原中也-

 『あけぼの』は定刻より8分遅れて午前9時32分、弘前駅のホームにすべりこんだ。駅を一歩でて見まごう。駅舎を背に左側にはでかいホテルがそびえたち、そのむこうにはダイエー。駅広場のむこうには工事がつづき建物もなにもない。こりゃわからん。降参しそうだ。

弘前駅前2003年。暖冬

 ここが弘前?『駅前日活』は?大町通りに続いていた古い町は?

 白銀町を経由して中土手町にむかった。そこまでに見覚えのある建物は『ヨーカドー』と『サンワボウル』の残骸のみ。いやはや。薄日がさす天気は2月の弘前としてはとても暖かく、歩道にのっている雪がザクザクになって溶けかかっている。

 『紀伊国屋書店『のうえのパークホテルに荷物を預けて土手町にでた。このホテルは以前『ホテル法華クラブ』だったところだという。もっとも私が弘前にいた頃は、『紀伊国屋』も『法華クラブ』もなかった。武藤はきょう名古屋から飛行機で青森にはいる予定。11時にホテルで待ち合わせだから、それまでのあいだ軽く散歩しようか。

 駅前の発展ぶりに元気を吸いとられるように土手町のさびれようが目立つ。『紀伊國屋書店』のとなりの空き地は『花邑』のあと。あとは……わからん。『肉の富田』は健在。記憶のなかにあるより蓬莱橋からスクランブルまでが遠い。
 □み小路の看板を写真に撮っているととおりがかりのおばちゃんが立ち止まった。

冬の弘前の暗い空


「あんれまあ、かくみ小路の看板とってらったの?」と声をかけられる。
「ええ、20年前に弘前で学生してたんです。雪の弘前はそれ以来で--」
「まんずそれは、ハァ、よくきなすったなあ。気をつけて」
□のなかにひらがなの『み』を書いて《かくみ》と読む。津軽を代表する飲屋街である鍛冶町から土手町にぬける小路。むかしからいくつかの飲食店が並んでいた。そこにあった『万茶ン』という喫茶店はあの頃、弘前最古がうたい文句だった。いまは東北最古の喫茶店、グレードアップしてる。場所は同じだがお店は改装したらしい。

 11時にホテルのロビーから武藤の携帯に電話をいれた。紀伊国屋にいます、と返事。すぐ階下に降りる。弘前での再会をよろこび、学校経由で寮にむかうことに決定した。中土手町から富田通りに沿って西にすすむ。

残されたエンブレム

 ふたりは久しぶりの弘前に興奮ぎみ、ひとときあのお店は見覚えがあるとか、あれ?ここってこうなってたっけ、とかの話ばかり。
「この模型屋あったあった。あの頃のままだ」
「『古書センター』ってこんなんだっけ?」
「お。『富田飯店』。健在か」
「えっと、学校の隣は、そうそう『弘前銘醸』だっけ、寮祭の時に氷買いに来たとこ、へえ、まだ煉瓦塀も倉庫も残ってる、でもあれ?でっかいディスカウントショップがあるや、ここ」
「『ビラ』ってパフェで有名だったとこでしょ?ひやあ、跡形もないねえ」
「うん?農学部って農学生命科学部?すげーカッコイイ名前。でもだれか農学部の看板を外したくない奴がいたんだぜ、これ」
「あれ、あれ、あの看板。『オリーブ&ポパイ』ここ前喫茶店だったんだ。ポパイライスってランチがあったような気がするんだけどなあ。そそ、ほうれん草と肉いため」

しぶいとしかいいようがありません。
撮影時から18年たった今はどうなってるんでしょうか

 学校をこすとそこに現れたのは『ぶんぷく茶がま』。ま、百聞は一見にしかず、見てください、ナウならーめん・ぶんぷくらーめん。たしかに。20年間、あんたはナウい。ナウであり続けている。しかもサラダとアイスクリームもついてる。
 昼飯時ふたりの足がどこにむかっているといえば、かの『飯村』です。同じ場所にありました。飯村食堂。店内は記憶にあるより少し広くなったかな。でも構成は全く同じはいって右側にカウンター、左側にふたり座れるテーブル席がみっつ。白衣を着たおやじ、ああ、まったく変わらない。すこしだけ老けたか?しかしあの時22だった俺がもう44なんだぜ。おばちゃんに20年ぶりなんです、というと、
「わたしもおばあちゃんになっちゃって。もう孫がいるんですよ」でも相変わらずキュートだった、飯村のおばちゃん。武藤も私もあんまり悩まず「ニンニク焼き」。530円也。このニンニク焼き定食。ごはん。みそ汁。つけもの。湯気。

いったいどれだけの数の寮生・学生の腹を満たしたんだろう、飯村の「にんにく焼き定食」

変わったのはこちらの胃袋か、ごめんなさい、ごはん、残しました。(考えてみたら92年の弘前行きの時も飯村いったような気がするので正確には10年ぶりかもしれません)

 満腹のふたりはぶらぶらと西弘へ。
「ねえ、兵藤さんここらに『ビックベン』って喫茶店ありませんでした?ぼくはいつもダイベンって呼んでたんですけど」
「あったあった。でも『プリムヴェイル』のほうが覚えてるぞ」
「夜遅くでも全然いやな顔しなかったいいマスターだったんですよ」
『カルチェ』。『ユニオン』。『しゅう』。さらに場所が移転した『とんちんかん』。『ゆうこ』。『スカット』。『八十八夜』。『鳴海』。立派になった『麺房たけや』。。。

寮生御用達。なるみ酒店

 土淵川をわたって桔梗野の坂をのぼっていくと右側に見慣れぬスーパーがあった。左側は昔のままりんご畑。
「おれ、きっとこの樹からリンゴ盗ったことあるぜ、まちがいなく」

 冬のこの時期には珍しく晴れ間が見えるほどの天気。暖かい。岩木山が頭だけを雲に隠して雄大な姿を見せている。この日の朝、列車の車窓から見えたときから思っていたのだが岩木山ってこんなに大きな山だったかいな。

 ほどなく北溟寮着。
 閑散とした土曜日の溟寮の玄関で、はて、どうしようかと武藤と考える。このサイトの掲示板に書き込んでくれた現役寮生のナカムラさんがいるはずなので、放送をかけようかなどといっている間に大きな体の寮生が現れた。
「だれかお探しですか?」
と彼に聞かれる。

 「えと、ぼくたち北溟寮のOBなんですが、寮務委員会室の資料が見たくて、あの2階のナカムラさんと連絡をとってあって…」
と我々はしどろもどろの返答をした。彼は巨体を翻して2階のシバタさん、クロヤナギさんはじめ何人かの現役寮生を連れてきてくれた。

「ぼくは実はOBなんです…」彼はついこの間まで溟寮に在籍していたOBで橘さんという方だった。8年も寮にいたそうな。この日はたまたま担当教官の退官記念講義をうけに弘前にきていて、このあと数日、寮に滞在予定とのこと。あわせて、同期の田中さんも登場。

 寮務委員会室にはいった。ガリ版印刷機がリソグラフに、青焼きコピー機がコピーマシンにかわってPCが置いてあるが、やはりそこは昔と同じ寮務委員会室だった。部屋のなかは20年前に比べてすっきり整理されている感じがする。

 今回の主目的のひとつでは当時の資料を探すことだった。もう散逸してはいないかと心配していたのだ。でもそれは杞憂だった。ちゃんとファイルされてある。寮務委員日誌や、階大・寮大資料、基調、総括…。武藤とわたしは興奮の色を抑えきれず大量の資料を漁った。

 数時間して寮内を見に行くことにした。
「こんなに天井、低かったっけ?」
 流し・置かれたガス台・トイレ。壁に貼られたビラが少ないことを別にすれば全く変わっていない。寮生もお約束どおり素焼きそばをつくってる。 

 最初に住んでいた116号室にはいる。天井には『ヤクルトV1おめでとう』の落書き。壁にはアルチュール・ランボオの詩。たしかに自分の筆跡。
 次に住んでいた127号室のロッカーの下。もぐりこめないと書けないここに、『俺には弘前に友はいない。バカヤロー』と酔っぱらって書いた落書き。そこから何人もの寮生がパロディや同じ言葉を書き残している。

 最後に住んでいた107号室にはいる。卒寮した日に残した落書きが残っている。《1983.3.26 ひ.(1978-1983)》ここは消されないだろうと考えて梁に書いたのだ。談話室の前から階段を登っていくと、踊り場までいくすぐの右の壁に『御愁傷様』の文字。ああ、これも俺の字じゃないか…。

 屋上は薄い雪に覆われていた。昨年春の北鷹寮での転落事故以来、屋上にあがることは自粛措置がとられているとのこと。はしごを登り避雷針のところまでいく。雲がかかる岩木山が大きい。視野いっぱいに見えるみたいだ。還ってきた、と思った。

 夕方ホテルにチェックインするためにいったん土手町にもどり、西弘にタクシーで出陣した。この夜はゼミの先生だった鈴木先生、中澤先生と『八十八夜』で痛飲。昔話に花を咲かせる。二軒目は酔い処『しゅう』。

「おい、兵藤、だいだい20年間で2回しか弘前に来ないとはいったいどういうことだっ。今度のゴールデンウィークにもぜったいこいっ。バスでこい、安いっ。とまりは文京荘をおれがとってやるっ。そうだ温泉に行こうっ」

 一軒目、二軒目とも先生方に払わせてしまいました。ごちそうさまでした。

《2021/6/26 再録 ©2003 Takefumi Hyodo, ALL RIGHTS RESERVED》

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