2003年冬弘前紀行《武藤編》①

ひょんなことから、冬の弘前に旅行することになったふたり。それぞれが、それぞれ感じたままに、ひとつの旅をつづります。

マルヒのセンチメンタルジャーニーに付き合うの記 一日目

 久しぶりの弘前は温かだった。
 2月の初めといえば、息を吸い込んだときの鼻毛が凍る感覚が思い出されるが、今回の旅にはそんなものはない。昔の感覚とのずれにまず戸惑ってしまった。昔の感覚といえば、弘前の駅前の変わりようもすさまじかった。黒いトタン屋根のバラックのような建物や、いかがわしい連れ込み宿のような建物が並んでいた辺りには、ダイエーや新しいホテルが立ち並び、奇妙な銅像やモニュメントがいたるところに建てられている。魯迅の「故郷」の中のせりふ、「昔の故郷はこんなふうではなかった。昔はずっとよかった」という言葉がよみがえってきた。

 ひょんなことで弘前に来ることになってしまった。自分の人の良さをちょっと悔やんでいる。
「武藤。ほんとに行くのかよ、おい」
 マルヒのうれしそうな声が耳によみがえる。あの日、マルヒがホームページ上で記述した10.20事件あたりの出来事について幾つかの疑問をメールで打ち、特に我々が大学本部に泊り込んだのがいつかという点で二人の見解は真っ二つに分かれ、「兵藤さん、こうなったら10.20以降の出来事について現地調査の必要がありますね。2月の連休辺りに弘前に行きましょうか」
などとお愛想を言った自分が馬鹿だった。

 その日のうちにマルヒによってホテルの予約を打たれてしまい、嫁さんの機嫌を伺いながら
「ちょっと弘前に行かなきゃなんなくなったから」
などと言い訳をし、校長にも
「ちょっと野暮用ができて、どうしても1日お休みが頂きたいのですが」
などといわなくてもいいおべっかを使い、今、自分は弘前の地に立っている。

 今回の旅の目的、それは1979年の10.20事件と、その後の会計検査院の指摘をきっかけとして起こる、北溟寮の炊フ公務員化運動の歴史を文献的に調査することである。などというのは表向きで、本当はマルヒのセンチメンタルジャーニーのお供である。

北溟寮屋上からの岩木山

でも、ちょっとうれしい。村上もとかの「六三四の剣」で久しぶりに盛岡に戻った六三四が
「おーい、岩手山。オラ帰ってきたぞ」
と叫んだみたいに、自分も
「おーい、岩木山、僕は帰ってきたよ」
と叫びたい気分になった。

 道が分からないので、その辺のおばちゃんに
「すみません。土手町まではどうやっていくんでしたっけ」
などと聞きながら、ようやく宿泊先の弘前パークホテルに徒歩でたどり着く。この、たいていのところには徒歩でいけてしまうというのが弘前という街の魅力の一つだなって思う。

 ここは昔の法華クラブ。確か京都資本のホテルだった。僕が4年のとき(1983年)、紀伊国屋と一緒にできたところ。紀伊国屋は相変わらず元気で、地元の伝統資本の今泉本店を駆逐してしまったのだが、ここはなぜか代替わりをしている。パークホテルという名から、なぜか、在日韓国人経営のホテルなのではないか、なんていう妄想が浮かんでくる。英語では朴さんのことをパークという。「パークとは、ボクのことかと朴がいい」

 近くの公衆電話からマルヒが電話を掛けてくる。このおっさんはいまだに携帯電話というものをもたない。ヘンなポリシーやこだわりをもっているところは昔とちっとも変わっていない。ロビーからエスカレーターで下に降りていくと、愛想のない顔をしたマルヒのおっさんが立っている。相変わらずの早口で「武藤君はさあ、何時にきたの」などという。なんでも夜行列車の中でワインなどを飲みながらこちらにきたそうで、非常に機嫌がいい。早速センチメンタルジャーニーが始まった。

 弘前で最初の飯をどこで食うか。この重要な問題をめぐって、我々二人は大いに悩んだ。大学の学食。ピエモンテのキャベツ。高砂のそば。ナポリタンのスパゲッティー。菊富士の郷土料理。いろいろ名前が上がったが、それはある一つの重要な名前の前での、単なる足踏みに過ぎなかった。マルヒの目がきらりと光った。
 「弘前で最初の飯は、飯村で決まりでしょう」
 「飯村」その名を聞くだけで、我々の口の中にはニンニク焼き定食と生姜焼き定食の味がじわりと沸いてくる。とても愛想のいいおばちゃんと、とても愛想の悪いオッちゃん。日曜の朝の、あのけだるい雰囲気。土手町から枡形の向こうまで、思い出探しのたびが始まった。

 相変わらずの狭い道だが、雪は少なく思ったよりも歩きやすい。途中、古ぼけた模型店を見つけて、
「ここは昔からあったぜ、武藤」
などと、マルヒは喜ぶ。そんな店に入ったことのある溟寮生は、きっとあんただけだぜって僕は思う。それくらい小さくて小汚い店だった。

 高級デジタルカメラを首から下げたマルヒは、街中の看板の、これはと思われるものを次から次と撮りまくる。20年前からちっとも変わっていない店の看板がいくつもあって、それはそれはおもしろい。「ナウいラーメンの店○○」看板が上下さかさまになっている「笑福亭」。

ぶんぷく亭

 その一方で消えてなくなった店の数々。大きなパフェで有名な「ビラ」は影も形もなかった。正門前にあって、山岳部出身のマスターがいた喫茶店はなんと言う名だったか、それも消えてなくなっていた。人のいいマスターがいて、何時までもコーヒーいっぱいで粘っていられた「ビッグ・ベン(大便)」や「青い花(青っ洟)」などという喫茶店も懐かしいが、すべて消えていた。

 何とかサイクルという自転車屋の前に来ると、マルヒが
「昔はここの裏に流転があったんだよ」
と、やたら懐かしがる。僕が知らないことだからきっと1980年以前の話だ。世間ではセブンティーズが復活して、そのダンスミュージックが再評価されているなどというのに、まるでタイムスリップしたみたいにリアルな感情がよみがえってくる。

今はなきとなってしまった《飯村》

 そしていよいよ「飯村」が見えてくる。うなぎの寝床のような店に入る。「いらっしゃい」の声がかかる。眼鏡が湯気に曇る。昼食の時間の少し前だったが、3人ほどの客がすでにいて、カツ丼などを食べている。テレビでは北朝鮮選手の参加で話題になっていた冬季アジア大会の閉会式に関連した番組を流していた。その日、2月8日はアジア大会の閉会式の日であった。

 メニューを見る。一番上にニンニク焼き定食があるのがうれしい。その他にラーメンやカツ丼などのメニューが抱負に並んでいる。昔からこんなに種類があったっけと、マルヒと顔を見合わせる。自分達がそうだったから思い込んでしまっているのかもしれないが、昔の「飯村」にはニンニク焼き定食と生姜焼き定食しかなかったんじゃなかったっけ。そんなことを思いつつ迷わずニンニク焼き定食二つを注文する。

 マスターと奥さんが一見するところ少しも変わっていないのに驚く。すぐに声をかけたかったが、ぐっと我慢する。それではそこらへんのテレビレポーターと同じではないか。僕たちはここ「飯村」のこの雰囲気を愛し、そして、この雰囲気を壊してはいけないのだ。

 やがてやってきた20年ぶりのニンニク焼き定食は、味も香りも昔のままだった。
白味噌を使った味噌汁も寸分変わらず昔のまま。湯気に曇るのを心配しつつ、早速マルヒがニンニク訳定食をカメラに収める。
 ダイエットをしているというマルヒは
「昔は足りねえと思ったけど、今じゃあ食いきれねえよ」
などと言って、ライスを少し残している。確かに40代にとってはこの量はちと苦しいが、安くて、うまくて、量があって、学生には最高の飯だった。
 食べ終わり、料金を払うところでマルヒが
「僕たち20年ぶりに食べにきたんです」というと、奥さんがそれはうれしそうな顔をして
「私はすっかり変わってしまって、もう孫がいるんですよ」といわれる。
 しかし、奥さんは相変わらず美人だった。津軽に来て、マルヒが何度も
「美人が多いな」
と、呟くことになるのだが、その中でも特に、おばちゃんたちと高校生の美しさは群を抜いている。(その中間層に当たる人々は化粧などをして、うまくごまかしている。ごまかしが利かない人々においてこそ、津軽美人は際立つのである)
 「ごちそうさま」と店を出かかると、後からマスターの「ありがとうございました」
の声がかかる。その時、あの無愛想なマスターの表情が、心なしかうれしそうに微笑んでいたことを、マルヒと僕は、決して見逃さなかった。

 腹ごしらえをした我々は、早速北溟寮に歩いて行く事にした。途中、西弘に立ち寄り「組合マーケット」などを見物する。「カルチェラタン」や「夕焼け小焼け」「ユニオン」「しゅう」「八十八夜」などの写真をとる。「33」や「ウイングス」「ほっかほっか大将亭」は既にない。オフコースばかりがかかっていた喫茶店「ヨーロピアン」のあったところには、別の名前の喫茶店が、既に閉鎖された様子であった。

ジャズ喫茶 ユニオン

 途中大きな蕎麦屋がある。マルヒには思い入れのある店のようで、盛んに感心をする。当時と比べやたらでかくなったらしいが、あまり記憶にない。名前は何とかといったが忘れてしまった。いつも酒を買っていた「鳴海酒店」はちっとも変わっていなかった。新装開店のときはマルヒたちが花を盗んできたそうだ。僕もここからビールケースを盗んだことを覚えている。そのビールケースは酒など飲むときに手ごろな台として非常に重宝した。
 工藤という1年下の教育学部の男が、コンパの芸で「鳴海のおじちゃん、鳴海のおじちゃん」といって歌い踊るのがあったけど、あの工藤ちゃんは元気で先生をやっているのだろうか。

カルチェ

 三村の車で雪の中ドライブに行った帰り、エンストして困っていたときに、親切にエンジンのかけ方を教えてくれたガソリンスタンドはそのままだった。寮に来て初めての買い物(中古の自転車)をした自転車店もそのままだった。しかし、その向かいにはトヨタのディーラーや中古車販売店があり、緑ヶ丘周辺はその様相を大きく変えていた。坂道を登る。いよいよ寮が見えてくる。スーパー、ラブホテル、パチンコ店、CDショップなど、以前はなかったもの達が目に飛び込んでくる。20年の年月を感じる。

 いよいよ北溟寮だ。中に入るのは20年ぶりだ。門の前で記念写真をとる。マルヒは弘南バスのバス停名が「北溟寮前」になっていないと怒り出す。寮の前にあって三村がいつも使っていた公衆電話もなくなっていた。

北溟寮 門前

 玄関に近づく。ちょっとどきどきする。思っていたよりも自動車の数が少ないので、意外な感じがした。
 玄関に入るとプロレスラーのような巨体で眼鏡を掛けた男性が「卒寮生の方ですか」と声をかけてくれる。これが後々たいへんお世話になる「橘さん」との出会いであった。五戸町で生まれ南部の名門八戸高校を卒業し、北溟寮に7年間住んだ後、中学校の国語の教員めざして勉強中の橘さんは北溟寮の卒寮生であり、たまたま寮に遊びに来ていたらしい。非常に親切で、優しい方であったが、高校時代はレスリングで青森1位になった経験もあるということだった。

 寮の中に入る。何でも「中村さん」という方にマルヒが電話で話をつけていたということであったが、中村さんは医学部で人体実験の被験者になるバイトがあっていないということだった。かわりに寮務委員関係者を呼んでもらうことにする。やってきたのは黒柳さんという、これまた八戸出身の、ちょっとジャニーズ系の顔立ちの寮生であった。来意を告げ、寮務委員会室に入れてもらう。

 中の様子がすばらしく整頓されていて、大いに驚く。我々の頃の寮務委員会室は机の上に書類が山のように詰まれ、タバコの灰皿がそこここに置かれて、足のふみ場もなかったものだ。棚に並んでいる資料に目をやると、なんと年度ごとにファイルがきちんと並べられているではないか。これなら今回の目的である10.20事件以降の寮の動きもすぐに把握できるはずだ。一瞬マルヒと見詰め合い、にんまりする。しかしこれがいかに甘い考えであるかは、後々はっきりしてくる。

 数人の現役寮生さんが入ってくる。1年程前の寮長をやっていたという方が、この部屋の整頓をしたときの苦労話を聞かせてくれる。今の寮務委員にも委員会室の整頓を言い聞かせているとのこと。昔ならありえない。部屋の整頓を考えた寮長もいなければ、それを命じられてきちんとやる寮務委員もいなかった。これだから毎年きちんと卒寮生名簿を作れるんだなあと感心する。

 だいたい北溟寮があんなにきちんきちんと毎年卒寮生名簿を出すなんて、昔ではありえないことではないか。「ナンセンス」だの「そんなことに何の意味があるんだ」だの、「わしの名前、載せられるのちょっとまずいんだけど」だの、いろいろな声が聞こえてきて、結局ぽしゃってしまうのが関の山だった。寮生気質も20年の歳月の中で少しずつ変わってきているのだろうと思う。

 せっかく整頓されていたものをぐちゃぐちゃにしては申し訳ないので、もとあった場所にきちんと返すように心掛けながら、1979年から1983年にかけての資料を見せてもらう。昔の仲間達の癖のある字が次々に出てきて、涙が出るほど懐かしい。死んだ山岡さんの丁寧な字、山脇のへんてこなイラストつきの署名。伊藤一郎の意味不明な文章。宅間、三村、ボボ、佐藤、小笠原、多田。

 自分が書いた文章が出てくると、赤面したくなるほど恥ずかしい気分になる。1980年12月に出された「学費値上げ反対寮生特別決議」の原案作りが、僕の寮務委員会での最初の仕事だった。恥ずかしながら僕は当時予算がどのように決定されていくかを全く知らなかった。そこで何日も大学の図書館に通って4月からの予算に関する新聞記事をすべて読み、それでやっと大蔵原案だの政府原案だの、大臣折衝だのという言葉の意味を飲み込むことができた。当時の総理大臣は鈴木善幸氏。アメリカが「ZENKO、WHO?」といった人物である。あの決議案の文言を作りながら、僕は大人になっていったように思う。

 各年度ごとの寮務委員会の議事録などを見ていくが、肝心の学長会見や評議委員会見、寮生大会などの様子がわかる資料は皆無に近い。やはりと思う。北溟寮の寮生がその辺のことをきちんと残しているはずがない。予感は的中した。疲れてきたのでそれ以上の調査は後日に伸ばし、ひとまずお暇することにする。

 夜はマルヒの恩師である中沢、鈴木の両先生と八十八夜で宴を持つ。中沢先生は温厚な紳士。昔、学寮委員をやっていて、北鷹寮の食堂で寮生に「先生は学寮委員の癖に無責任です」とすごまれて怖かったなどと、懐かしそうに昔の話をされる。今は人文学部の評議員をやっておられるとのこと。社会科の教科書のあり方について、今でも積極的に発言をされているとのこと。良心的な知識人が存在していることを非常にうれしく感じる。

 鈴木先生は昔、北溟寮に来て中核をやり込めたという有名な人。酒が入ってくると、
「兵藤君、君は昔ぼくの授業を実につまらないなどといったのだよ。覚えているかい」
と、だんだん目が据わってくる。
「5月には是非とも弘前に来たまえ、宿は僕が何とかする。それが無理だったら八月に来たまえ」
この人は友だちがいなくて寂しいのかなと思う。
 こうして弘前最初の夜はふけていった。

《2021/6/21 再録 ©2003 Osamu Muto, ALL RIGHTS RESERVED》