2003年冬弘前紀行《兵藤編》④

ひょんなことから、冬の弘前に旅行することになったふたり。それぞれが、それぞれ感じたままに、ひとつの旅をつづります。

 スノー・ヒロサキ・タイムスリップ・ジャーニー 

hirosaki again

たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
 「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
 「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。

-太宰治-

 今日も晴れ。これで3日も晴れの日が続いている。きょうは平日であるので学校もやっている。ふたりは大学本部に足をむけた。なぜこんな場所に?それは小田桐さんの住所を知るためであった。小田桐さんは、私や武藤が寮にいた頃北溟寮で事務をしていた方である。寮生にとってはまるでお母さんのような存在であった。ずっと会っていない。
 大学本部にはいっていった。ここで座り込みや泊まり込みをしたんだ、と武藤は感慨深い様子。寮長だった武藤はそれ以外にも総務課にはいろいろとあったようだ。

 「わたしどもは弘前大学の卒業生で、20年前に北溟寮に住んでいた者ですが、あの頃寮の事務をしていた小田桐さんの今の住所はわかりませんか?」
 突然のちん入者にもかかわらず、20年という重みと卒業生ということが効いたのか、総務の方は親切に対応してくださった。小田桐さんの息子さんが理工学部(注 いまは理学部ではなく理工学部になっている)の学務にいると教えてくれる。早速息子さんに電話してもらい、ふたりで理工学部にいく。

 息子さんによると小田桐さんは元気でおられるとのこと。きょうは家にいるはずだから、と電話番号を教えてもらった。早速武藤が携帯から電話するが呼び出し音はなるものの、誰もでない。まあ、後でまたかけることにしてふたたび北溟寮にむかう。

 学校の裏手から弘南鉄道の踏切を越えて歩いていると、むこうからおととい寮であったクロヤナギさんが歩いてきた。これから今年度最後の授業とのこと。
「今晩、水フさんの慰労会があるんです、よろしかったら参加しませんか?」
全寮コンパらしい。
「是非参加させてください。また夜に寮で会いましょう」と別れる。

1020事件後のデモを伝える東奥日報

 午後いっぱい寮務委員会室にこもって資料をみたりコピーしたりしていく。ガリ版印刷で刷られたわら半紙の山。あ、これ、と 見た瞬間に誰が書いたかわかる字がある。自分が書いたものでも自分でも覚えていないものがでてきたりしてびっくりする。 

 資料あさりの合間合間に武藤が小田桐さんに電話を試みるが、今度は留守電になったまま。とりあえず、兵藤と武藤が弘前にきていることをメッセージに残した。
 今回は小田桐さんに会うのはあきらめるか、というムードになった3時過ぎ、思いもかけず携帯がなりだした。小田桐さんからの電話だった。現在の住まいは樹木のさき、南高校のあたりだという。早速、寮からタクシーでそのあたりまで行って、また電話することに決めた。寮の玄関前でタクシーを止めのりこんだが、なんのことはない5分も走らず、「このへんですねぇ」と運転手さんにいわれた。そこから細い道にはいって100メートルほど、ひとまわり小さくなったような小田桐さんが手を振っていた。

「あれから20年、わたしもこんなおばあちゃんになってしまって」と変わらぬ津軽のアクセントで話される。

 北溟寮の前に朋寮に勤務していたこと、娘さんが溟寮の水フさんの仕事をしたこと、水フの小野さんや山崎さんの思い出、作業員の山崎さんの事、話がすすむ。また、初耳だったが、小田桐さんは子供の頃、富田に住んでいたそうだ。もちろん官立弘前高等学校の時代で、その頃いまの教育学部のところにあった北溟寮から寮生が、毎晩のように下駄をならして寮歌を高吟しながら、富田の大通りを土手町のほうに歩いていたことを覚えている由。

小田桐さんと

 「今でも昔の寮生の方から、何通か年賀状をいただくんですよ」
と小田桐さんが数枚の年賀はがきを見せてくれた。多田とか粂田とか、いかにも出しそうな人物にまじって古田土からの年賀状があり、武藤もわたしも感心する。

 結局、ピールとお寿司までごちそうになってしまった。

 武藤と私があふれるように当時の話をすると、
「そうですね、そんなことがありました。ほんとうに懐かしい。あれからもう20年ですものね」と答えてくれる。私たちはひたすら 津軽弁のやさしいアクセントに包まれている。

 夕刻、小田桐家を辞し、ふたたび寮に戻った。もうすでに全寮コンパが始まろうとしていた。この日で基本的には3学期はおしまい、明日から春休みにはいるという日。一年の感謝をこめて水フさんの慰労会と懇親会を全寮コンパとしておこなうのだという。我々の頃にはなかった風習だが、食堂にダラダラと集まり出す寮生の姿は昔と変わらない。

変わらぬ全寮コンパ風景

 食堂の机のうえにビールと食料がならびコンパが始まる。橘・田中の両OBも滞在を延期して、この夜もコンパに参加していた。昨日は朝の6時まで談話室で飲んでいたそうだ。飛び入り参加のOB4人は前にでて挨拶をさせれらた。

 余興には喫食率の発表というのが始まった。トップはなんと100%。すげー。朝晩の寮食を100%。素直に感心する。

 2時間あまりにわたるコンパの最後に大太鼓が食堂に運び込まれ寮生が円陣を組む。
ドーン、ドーンと大太鼓が響き渡り、円陣の中央にたった寮長が序章をとなえはじめる。

 ゆきをぉ いただくぅ しゅうほういわきをせにぃぃぃぃ
 おおたるやこじょうのさくら ゆうゆうたるいわきがわのしらべぇぇ
 けんらんたるわれがせいしゅんのきょうえんはむげにすぎやすしぃぃ
 しかれどもみずやきみぃぃ ほくめいにかがやくしあわせぼしにかげはなくぅぅ(※注1)
 ゆきとまごうおうりょうのめいかぁ とわにしぼまざらんことをぉぉ
 りょうりょうとみらいのうんめいをなげかんよりはぁぁ
 わかきおんちょうのせいかをたきてぇぇ
 かんっらくのうまざけをくみかわしぃぃ
 いざいざおおうかせんきねんさいっ

 北溟寮寮歌 みやこもとぉしっ アインっ ツバイっ ドライっ

 ♪都も遠し津軽野に 溢るる精気若人の
  胸に希望の春はきて 高鳴る血潮紅の
  咲くは理想の花の色 潜むや大鵬みちのおく

 私も武藤も離ればなれになって、寮生と肩を組んで声をはりあげる。
 肩を組んだ現役寮生は20歳すぎくらいだろうか。私がこの寮に住んでいてこの歌をこの食堂で歌ったとき、彼はやっと生まれたばかりだったはずである。その彼といま、私は肩を組んで『都も遠し』を歌っている。涙がでそうになった。それと、なぜだろう、現役寮生に申し訳ないという気分になった。

 コンパが果てた後、2階の寮生諸君が談話室に誘ってくれてふたたび酒宴が始まる。
 談話室で馬鹿話をしながら酒を飲んで、武藤と私はもう脳内では現役寮生になっている。周りから見たら40過ぎのおっさんだったろうが、私にとって武藤は4階の武藤で、まわりで飲んでいる連中は2階の寮生、わたし自身は107号室の兵藤。

 12時過ぎにタクシーを呼んで土手町のホテルに戻ることにした。寮の玄関先で大勢の現役諸君に見送られてタクシーに乗り込んだ武藤は
「気持ちのいい連中だったよね」という。
 「北溟寮はちっとも変わっていない」
 「いい旅行でした。楽しかった」
 「ほんとうに楽しい旅行だった、きてよかった」

 タクシーが門からでる直前にふりかえると、暗闇のなかにいくつか窓の灯りを光らせて北溟寮が立っている。
 明日の朝、武藤は青森空港から私は弘前駅から。もう、それぞれ別の家に戻ってしまうのだ。

going home

古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう、
古い船を今、動かせるのは古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も、新しい船のように新しい海へ出る、
古い水夫は知っているのさ、新しい海の怖さを…

-吉田拓郎-
くもりガラスのむこうに…

 朝、ホテルの水滴で曇ったガラスをこすると、雪が舞っているのが見えた。サヨナラをいわなくちゃいけない日になって、やっと、この街は雪を降らせてくれた。

 電車にはあまり人がのっていなかった。ぼんやり雪景色をみながら今回の旅行のことを思い返す。変わってしまった弘前、変わらなかった弘前。懐かしい人々、新しく出会えた人々。

 それから想いは北溟寮に飛んだ。
 寮歌で涙ぐみそうになった時、現役寮生に申し訳ないという気分になったのはどうしてだろう。別に無理矢理参加させてもらっていたのでもないし、そこにいることに何ら違和感は感じていなかったのに。
 「北溟寮のことを過去の事としてあつかっているからか…」
 やがてそんな風に思いついた。このウェブサイトで私はずっと北溟寮の事を過去の事として書いていた。もうすでに失われた楽園のように、だ。未来を指向しないウェブサイト・生産的ではないコンテンツにしようとさえ思っていた。北溟寮は死んだものとして扱っていたのだ。
 でも違う。北溟寮は、もう変化しない化石のように一切が過去のものとなった旧制高等学校の寮とは違うのだ。私にとっては冷たい光を放つダイヤモンドのように思っていた北溟寮の生活は、ほんとうは まだマグマのように脈打って生き続けているのである。
 今回の旅で気づいたのだ。そこは思い出の中に輝いているだけの場所ではない。死んだ場所ではない。私たちだけの場所でもない。それなのに、それをお前はノスタルジーの中に封じこめ、おもちゃの対象にしているのではないか、と。

 列車の振動に身を任せて、もう一度考え直す--しかし、いまも寮に住む彼らはそんなことさえ気にしないだろう。あの頃の私たちがそうであったように。だから私たちは古い歌を歌い続けても許されるのかもしれない、と。

 現役諸君よ、年とったOBがこんな話をサイトでくだくだ書くことを許してくれよ。そこは私たちにとっても思い出の宝石箱なんだから。この年寄り連中に少しだけあの頃の力をくれよ…

 列車がヒロサキをでるとき窓の外を真っ白に覆いつくしていた雪は、青森をすぎて少なくなり、八戸につくころには完全に消えた。

(了) March 15, 2003

《2021/6/28 再録 ©2003 Takefumi Hyodo, ALL RIGHTS RESERVED》

◆(※注1)我々の世代では「ほくめいにかがくやこうふくせい」と音読みしてましたが、このとき「ほくめいにがやくしあわせぼし」と訓読みをしていましたのでそのままに。

◆20年ちかく前になったこのときの旅ですが、寮歌を歌ったときの気持ち、帰りの新幹線のなかでの想い、まるでつい最近のことのように胸にうかびます。

◆なべての友どちよ、また、いつの日にか会わん…

《2021/6/28》

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