第四十四夜 あまり清潔ではない話

ていうか、コツチダ君たら、ふ・け・つ

おとこやもめにゃウジがわく、そうだが、むくつけき男ばかり200名も居住する北溟寮はいったいどうだったろう。さて今お食事中の方! いますぐ「閉じる」をクリックしてしばし読むのをやめた方がいいと思います。では清潔ではない(≒汚ない話)、スタート!

マルヒの部屋

 寮の個室の話から始める。確かに綺麗に掃除されて整理整頓された部屋もあった。だがもちろんそうでない部屋も多かった。1年生時から2年生時にかけて、マルヒの部屋は寮内でも もっとも汚く、といおうか、もっともちらかった部屋のひとつであったことは間違いない。ちらかりの原因はなんといっても新聞であった。

 マルヒの実家は信州松本であり、実家では当然のように地方新聞の雄・信濃毎日新聞=信毎(しんまい)をとっていたが、なぜか、それとともにあわせて全国紙の毎日新聞もとっていた。
 弘前にきた当初、《地方に住む以上 地方紙をとるのが当然だろう》と思っていたのだが『東奥日報』『陸奥新報』とも、失礼ながらあまり読み応えがなく、家で親しんでいた全国紙の毎日新聞をとることにした。この新聞がなんといっても部屋がちらかる主要因だったと思っている。新聞は朝、玄関の下駄箱に届けられていた。午前の遅い時間か、あるいはうかうかすると昼も過ぎたころ、窓の外の降りしきる雪を見ながらベッドのなかで新聞を読むのはマルヒにとって至福の時間であった。ただ、そのあと読み終わった新聞やオリコミ広告はそのまま、床に投げ捨てられたのであるが。

 同室のウータン氏はその容貌からは想像もできないような几帳面さをもってたし、プラスしてきれい好きでもあった。今となってはその几帳面ウータン氏といいかげんなマルヒがよくもコンピで2年も同室であったと思う。居住していた116号室にはぴったり真ん中で線がひかれているように、あるいはそこにあたかも見えないベルリンの壁があったかのように、西側-マルヒ側は新聞紙・ちらしあるいは脱ぎ捨てた服などで重なるように汚れに汚れ、東側-ウータン氏がわは毎朝、ウータン氏がほうきでお掃除していたのだ。

コツチダの部屋

 とはいっても、その頃、寮内最強の「汚い部屋」といえばコツチダとカッチンの部屋であったとマルヒは確信している。
 コツチダとは寮にはいっていすぐ、人文学部の寮生だけに招集がかかったコンパで隣り合わせて以来、意気投合していた。人文の経済は他の学生から暇な経済・即ち《ヒマケイ》と呼ばれた学科だった。クラス構成はあいうえお順に並べてふたつに区切りE1・E2のふたつ。ということでコツチダはE1、マルヒはE2。コツチダ(4階)とマルヒ(1階)のふたりは入寮した4月そうそうから「いっかいよんかいコミューンっ」などとわけのわからないことを叫んでいたのだ。
 カッチン(=タカミさん)は運悪く(?)そのコツチダの同室となった理学部の4年生。しかしコツチダの同室だったカッチンは、マルヒの同室だったウータン氏のごとくきれい好きではなかったのであろう、コツチダが汚す範囲はそのまま広がっていて422号室はみるみる汚くなっていた。足の踏み場がない、とはまさにあの部屋の事を形容したたとえのようであった。カッチンはほどなくして退寮していったが部屋の汚さもその理由の一端ではなかったかと邪推している。

風呂掃除当番

 北溟寮の風呂は一日おき・その清掃は当番制だった。風呂掃除当番は、1回あたり2部屋=4人が担当し順番に全寮を回っていく。一階あたり27部屋ないしは28部屋あったので全部で110あまり、よって年に1回ぐらいのわりあいで風呂掃除当番がまわってくる。
 掃除はクレンザーをぶっかけ、デッキブラシでごしごしやるのだが、皆がいやがったのが排水口にたまった「おけけ」の掃除である。「おけけつまみ」と称するピンセットの化け物で掃除をしたものだ。マルヒは存外気にせず素手でも気にしなかったが。
 なんだ、これは風呂掃除の話だった、むしろ清潔な話じゃないすか。

流し

 流しにはいつも汚れた食器が積み重なれているのが常であった。寮生がつくるものはせいぜいインラン(インスタントラーメン)か、生協やきそばでしかないはずなのに、にもかかわらず食器と箸と鍋とフライパンが流しにいつも山積みになっていた。
 かくいうマルヒは自分の食器などもっていたためしがなかったが、たいていそのあたりにあった食器を適当に使っていた。あんまり洗った記憶もない。

新聞紙ロード

 3大コンパ以外におこなわれる公式コンパで酒の雨がふるのは改選コンパであろう。
 寮長・寮務委員・各階階長は半年の任期なので年に2回この改選コンパがある。改選コンパは各階ごとの談話室で各階ごと全寮同日に開催される。このとき新しく役についた面々はそれぞれ順番に各階のコンパ会場たる談話室にすべて顔をだし、出身なり芸なりをしなくてはならない。これを称して『階まわり』といった。
 1階ではこのときトイレの中に新聞紙を敷き詰め、ゲロを吐いたとき対策としていた。おのおのの階でどんぶり酒(ピールもしくは日本酒もしくは焼酎)を飲んだ後、トイレにかけこんで吐きだす連中が多かったからである。野蛮なり。アルハラだよね、今ならきっとやらない。最終的にはこんな風になります。←画像資料館にリンクしてあります。
 それだけじゃない、危ないと思うやつのベッド周りにはやはり新聞紙を敷き詰め、洗面器も用意するのが常であった。

寮雨

 旧制高校の寮関連の話題を少しかじったことがある人なら誰でも知っているだろう寮雨のこと。「天気がよいのに雨が降る」とうたわれた寮雨とは…なんのことはない、寮の窓からする小便のことである。なんのことはないことないか。
 戦前に建てられた旧寮であれば1階にいかなくては便所はなかったろうし、ひょっとしたら新制大学に変わってからでも戦後すぐの旧寮なら寮雨はあったかもしれぬ。しかし、わが北溟寮のような新寮なら各階ごとにトイレはついていたはずだし、さすがに寮雨を降らせたという話は知らない。
 ただ『ストーム考』(←リンクしてあります)の時に書いたように、北鷹寮生からストームをくらった時に、ぶっかける水の中に小便を混ぜたことがあった。マルヒは1階の住人であるからまさに最前線で北鷹寮生に対峙したわけだが、ついでに上階からの水も浴びることは普通だったからその中に小便が混じっていたこともあるだろう。

十時十分事件(じゅうじじゅっぷんじけん)

 その事件は10時10分に起きたわけではない。あれは時計の針が12時を越えた真夜中のできごとであった。登場人物は「ち×こ ま×こ」シモヤマと、ホモツグのおっさん、ともに4階の住人である。
 その夜なぜかマルヒは4階の個室で飲酒していた。たぶんコツチダとかがいたに違いない。シモヤマも一緒に呑んでいた。あまり酒に強くないシモヤマはすでにへろへろの状態になっていたのだろう、突然『ワシ、しょうべんしてくるわ』といって422号室をでていった。
 『ひぇっ』という声と大きな怒鳴り声が聞こえてきたのはその直後である。血相を変えて怒っていたのはふだんはニヤニヤ笑いながら『おぬしはのぉ…』とか話しているホモツグのおっさんだった。シモヤマはなんと、422号室をでてそのままトイレならぬホモツグの部屋にはいっていって、便器ならぬ椅子の背もたれにむかって、イチモツをとりだしジョポジョボと放尿してしまったのだ。ホモツグの眉毛は普段は下にむかって垂れて…すなわち八時二十分を示していたのだが、このときばかりは怒りのあまりその眉は十時十分を示していたという。
 シモヤマはこの当時406号室に住んでいた。北側である。その自室からトイレにいくには、ドアを開いて左側に5メートルほど歩いてもういちど左に曲がる。だが、なんたるちゃ、この夜わしらが集まって飲んでいたのはコツチダの部屋、すなわち422号室、つまり南側だったのである。泥酔したシモヤマがいつもの調子でドアを開いて左に5メートル歩いてもういちど左に曲がると……そこがホモツグの部屋だったわけだ。たしかに椅子の背もたれも小便器=アサガオに似ていなくもない。

タクの脱糞

 フジタタクは九州からはるばる弘前大の教育学部にきた変なやつだった。北溟寮の入寮選考のあと、各階のへの振り分けは会長会議にまかされるのだが、タクの入寮当時1階はふたつの方針をたてていて、それは ①妹がいるやつ ②とにかく遠くから来るやつ だったのだ。だからタクは1階生となった。
 タクは酔っぱらって寮に帰ってきて、1階から2階への階段の途中・踊り場で脱糞をした。なぜそんなことをしたのか当人も覚えていなかったようだが。
 マルヒがいた5年間でそのような場所でそのような行為におよんだのはタクひとりである。

※どうも部屋番号に自信がありません。関係者は訂正情報を願います。

(June 14, 2008)

◆いろいろ事情があって久しぶりのアップになりました。当時のマルヒとウータンの部屋、すなわち116号室の画像を探しましたがでてこない。
◆今回(も?)登場している、コツチダ、シモヤマ両氏ともすでにむこうの世界に逝ってしまったことに寂しさを覚えます
◆ホモツグのおっさんは消息不明。

《2023.12.25》

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