第四十五夜 コンパ芸

拍手と笑いにつつまれて

北溟寮千夜一夜の劈頭には3大コンパ-新歓コンパ・水コン・観桜会-のことを書いた。しかし北溟寮の公式コンパといえるのはこれだけではなく、この他に「改選コンパ」、「追い出しコンパ」があった。

 説明するまでもないが、「追いコン」は例年2月頃におこなわれる卒寮者をおくりだすコンパのこと。マルヒの高校・深志では「追い出しコンパ」のことを「まくりだしコンパ」と呼んでいた。まくりだし、というのはなんか味があっていい言葉だと今でも思っているのでここに記しておく。

 「改選コンパ」は年2回(6月と12月だったか?)の寮長および寮務委員会、各階階長の改選後、お披露目のためにおこなわれるコンパである。全寮同時に各階別で開催され、新しく寮務委員になった連中と、新しく階長・副階長になった連中がそれぞれ各階の談話室でおこなわれているコンパに次々と顔をだしてあいさつをしていく趣向だ。これを称して階周りという。
 当時それぞれの階にはキャッチフレーズがついており『愛と誠の1階』『ビンビンの2階』『知性と教養の3階』『花の4階』となっていた。この名称がいつ頃から使い始められたかは不明である。『愛と誠』という梶原一騎原作の有名なマンガが少年マガジンに連載を始めたのは1973年でマルヒが入寮するより5年前のこと。78年に5年生だったアイサカさんはわたしに『1階が「愛と誠」と称するのはあのマンガより前からだ』といっていたような気がする…が定かでない。

 さて、当然のことながら各階で少なくとも「出身」を、できれば「一芸」をおこなう必要がある。返礼として各階でも伝統の歓迎方法があり、4階ではラーメン丼に焼酎という恐怖、1階ではバナナの皮投げという荒技が待っていた。
 かくいうマルヒも2年の後期に1階階長に相なりこの階周りを経験する。アルコールは弱い方ではないマルヒだが、さすがに1、2時間の間に1階から4階まですべてをまわり日本酒やら焼酎を丼で飲み干し・それ以外にも景気づけに飲酒する、となるとトイレでちゃんと吐かなくてはだめだったろう。ただしマルヒは無芸大食・鯨飲馬食、とても一芸などできずにもっぱら「出身」でお茶を濁していた。
 うう、マクラが長くなったけど、今回はその一芸のお話。

アトム氏の鉄腕アトム

 マルヒらが入寮したときにはもう4年生だった4階のタナカさんはアトム氏と呼ばれていた。どうして彼がアトムなのか、その答えは彼の一芸にあった。かの名曲
 ♪空をこえてぇ、ららら、星のかなたぁ 
を歌いながら踊るのである。なんといっても見せ場は最後の
 ♪ななつぅの いりょくぅだ、てつわんあとむぅぅ
のところ。アトム氏はアトムのように両腕を90度曲げてほんとうに飛ぶ--ダイブするのであった。机の上におかれているモノとかにもかまわず、それらを全部ではね飛ばしながら。

ションバヤシのストリッパー

 3階のションバヤシの得意技はジュリーのストリッパーであった。そうです、想像どおりです、
 ♪ヒールを脱ぎ捨て~、ルージュを脱ぎ捨て~
と歌うところを
 ♪Tシャツ脱ぎ捨て~ズボンを脱ぎ捨て~
とか歌いながら本当に脱ぎ捨てていくのである。アトムの芸と同じといえば同じ。この手の一芸はいかに照れずにできるか、にかかっているともいえる。

ケイジのお富さん

 1階の公式コンパのときだれかが歌を歌うときには必ず北島三郎『函館の女』の前奏を口で唱えることになっていた。たいていはその頃の流行歌を歌うことが多かったが、ケイジの場合なぜか得意技は『お富さん』。
 ♪粋な黒塀ぃ、見越しの松にぃ
と渋く歌いだす。「死んだはずだよお富さんっ」のところでは全員が合唱してしまうのだった。

マツシタの中国語出身

 3階の矢印男マツシタがいつかの「水コン」でおこなった。矢印男?ええ、彼の鼻は矢印型をしていたのである。机の上にのったマツシタは

『すゅいしょ~ん~ ぺいはいたおりゅう~ しゃおぺいふぅりゃおかおはん~』

と珍妙な発音で出身をはじめた。マツシタの大技・中国語出身である。マツシタは人文学部文学科で中国文学だか中国史だかの専攻だったのだ。声調-いわゆる四声をともなった抑揚による「出身」は脱力感満点だった。
(*記載した中国語はでたらめです。念のため。)

ヤマワキのアブラハム

 いわば体育会系の定番である『アブラハムと7人の子』を得意にしていたのは4階のヤマワキ。『アブラハム…』はご存じの方も多いことだろう、幼稚園のお遊戯で踊られたりしてるらしい。
 ♪アブラッハムッは七人の子、ひとりはのっぽであとはちび
 ♪みーんな楽しく暮らしてる アブラハムの息子 右手!
ということで右手をあげて、二番はその右手を大きくふりながら歌い続ける
 ♪アブラッハムッは七人の子、ひとりはのっぽであとはちび
 ♪みーんな楽しく暮らしてる アブラハムの息子 左手!
次の3番は右手と左手を同時に大きくふりながらになる。続けて『右足!』。
4番は右手・左手を振り下ろすタイミングで右足もあげる。息も切れてくる。
それから『左足!』。両足でジャンプするや左足右足を上にはねあげ同時に右手左手をふる。まるでバネ細工のようだ。最後に『頭!』だったか。ジャンプしながら腕をふり頭を狂ったようにふりまわしながら
 ♪あぶらっはぁむはぁぁ しちにんのこぉお 
と必死に歌い・踊り続けるヤマワキに対して寮生からは期せずして拍手がわき起こるのだった、大笑いとともに。

オーマチの…

 オーマチは仙台の出身で別名3階の「たらこくちびる」。その分厚い唇がトレードマークだった。彼とマルヒとは大学で同じSF研所属。(じつはこう見えても(?)マルヒは最初、体育会ヨット部にはいっていたのである。これには理由があって、ひとつは小学生の頃から親しんだアーサー・ランサムの影響だった。『ツバメ号とアマゾン号』から始まる12の物語はマルヒにヨットへの夢を抱かせた。山深い松本の高校ではさすがにヨット部はなく兄の影響もあり山岳部にはいったが、後立山のどこかの尾根をえっちらおっちら登っている時だったか、青木湖で優雅にディンギーが帆走する姿を見た時「そうだ俺はヨットに乗らなくっちゃいけなかったんだ」と再決心したのである。
 しかしながら「海の上でレースに明け暮れる」という大学体育会のヨット部の思想と、「たらたらヨットに乗って広い海を彷徨したい」という自分の志向には決定的な違いがあり2年のはじめには辞めてしまった。ヨット界ではレース派・ブルーウォーター派とかいう用語があった。マルヒはかっこよくいえばそのブルーウォーター派なのだ。まあ、毎日筋トレやらランニングやらをやって・週末には青森の合浦公園の横にある艇庫にいく、という体育会的生活が、根っから怠惰なマルヒにはつとまらなかったという説も濃厚である。寮の合コンにもおちおち出られなかったしね。
 その代わりといってはなんであるがSF研究会に顔をだしていた。高校の時からSFマニアである。そこでオーマチと一緒だったわけだ。オーマチの趣味はなんといっても海外翻訳ものだった。ジョン・ヴァーリィの短編集『残像』の中にあった「逆行の夏」とかトム・リーミィの『サンディエゴ・ライト・フット・スー』とかが彼のお気に入りだったかなあ。)

 ずいぶん脱線したがそのオーマチのコンパ芸のことだ。オーマチは前述のようにリリカルで叙情的なSFを愛する青年なのであった……だがしかし、やんぬるかな、彼の歩く姿はリリカルとはとてもいえなかった。少しがに股気味に膝を開き、手をふるのではなく両肩を前後に揺らすようにして、右足を出すときに右肩を・左足を出すときに左肩を前にだす、そうだキングコングのように歩くと、それがオーマチの歩き方である。
 コンパの会場ではオーマチの登場のときに必ずその歩きにあわせて『オー! (ここで一拍いれる) マチッ! オー! (一拍)  マチッ!』の大合唱がわきあがったものだ。

 3階の階長に選ばれたオーマチには当然のように「階周り」の機会がやってきた。思えば同じ3階の階長だったクメダは以前、階周りで1階にやってきた時、伝説になった『歯を食いしばってソーメンを食べる出身』を敢行したものだ。(第二十七夜 『女子寮めぐり駅伝』をご参照ください)

 談話室の外に3階の一群がやってくる気配を感じたわれわれ1階生からはすかさず、『オー! マチッ! オー! マチッ!』の声。期待に違わずオーマチ歩きでのしのしとはいってきたオーマチの顔はなんと…『たらこ唇の石野真子』だった!オーマチは石野真子のピンナップ写真を「お面」にして口のところだけを切り取って自らの「たらこくちびる」をそこからつきだしていたのだ。その異様な姿にすでに酔いが回っていた1階生も一瞬唖然とし、それから爆笑したのだった。
 いまネットで調べると石野真子のデビューは78年3月で「狼なんか怖くない」(作詞・阿久悠 作曲・吉田拓郎という豪華コンビ)、81年8月には長渕剛と結婚のため芸能界をいったん引退している。

 オーマチが顔につけたピンナップは確か「GORO」についていたやつだったと記憶している。「GORO」、懐かしいでしょう。紀信激写。あの頃の正しい青少年ならいっぺんはお世話になったことがあるはすだ。
「GORO表紙館」
↑クリックしました?
いやあ、すごいですね。こんな資料まで転がっているんですから。懐かしくて涙がでそうです。
1980年の6月26日号をご覧ください。拡大してみるとジャンボピンナップってあるでしょう?これがもしかしたらオーマチがあの日顔につけたピンナップかと。オーマチはマルヒから2学年下で、ということは80年の4月に入寮しており、彼が階長になったときの改選コンパだとしたら81年の出来事だろう。だとするとこの「GORO」のピンナップの時期とは一年くらいの間隔がある。ただ、寮内ではこのての雑誌はくるくると回って何年も滞留することがあったから本当にこれだったのだと思う方が楽しい。

(June 28, 2008)

【追記】
某3階生から、『いやいや3階は痴性と狂養の3階であるぞよ』との投稿がありました。なるほどそういえばそうだったなあ。うんうん、キミたちにはふさわしいのはそっちの字だよね。ということで今後は「痴性と狂養」を使いますです。

◆マツシタの出身校は北海道立小樽潮陵高校です。いや、違う。北海道の道立高校は道立とはうたわずに北海道××高校というのが正しい、これは長野県と同じです。でも「出身」では『○○県立××高等学校』というのが普通だったのでマツシタも「北海道立…」っていってたかも。

◆「GORO表紙館」は2008年当時とは違うアドレスで生きていました。リンク先は「シノヤマネット」という篠山紀信氏の公式Webサイトのようです。廃刊になってしまった週刊朝日の表紙もあるよ。

◆今年の秋、卒業以来40年ぶりに元1階生のケンジと会った。上に書いた『お富さん』はケジ、会ったのはケジで別人。
ケンジは仙台一高の出身でコンパ芸はいつも『大漁唄い込み』。今回札幌の居酒屋で7人ほど集まったのだが、その席上
 ♪えんやっとっと えんやとっと、はぁ~まつしまぁあのぉぉぉ
と、あの頃と変わらぬ美声を披露した。感動した。たいしたものです。

《2023/12/27》

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