2003年冬弘前紀行《武藤編》③
ひょんなことから、冬の弘前に旅行することになったふたり。それぞれが、それぞれ感じたままに、ひとつの旅をつづります。
マルヒのセンチメンタルジャーニーに付き合うの記 三日目
三日目の朝、昨夜早く寝たおかげですっきりとした目覚めであった。歩いて大学に行く。大学に行くのにはある理由があった。小田桐さんの消息を知るためだ。いつも黒板にきれいな字で案内を書いてくれた小田桐さん。きれいな声で歌を歌ってくれた小田桐さん。今日はその小田桐さんに会おうと思っていた。
大学について、まず学食で腹ごしらえをした。マルヒはカレーを食べた。ムトウは焼肉丼とカルビスープを食べた。レシートにカロリー計算が載っている事にマルヒがえらく感心をしていた。テーブルにはタバコの灰皿が一つも置いていない。全面禁煙なのだ。カロリーといい禁煙といい、ここでも健康志向が一貫されている。時代の流れを感じた。
腹がくちたので、早速大学本部に言った。大学本部にこうした形で足を踏み入れるとは思っても見なかったので、少し緊張をした。本部のロビーに入ると、ジョン・レノンが死んだ日にここで座り込みをしていたことや、ひょんなことで泊り込みをすることになって柴橋がおろおろしていたことや、寮内で盗難事件が起きて警察が現場検証をしたいと言い出し、それをとめるために副寮長の佐藤君と一緒にここに交渉に来たことを思い出した。
本部の前に立ち、上着を脱ぎ、ドアを開ける。
「お忙しいところ申し訳ありません。私ここの卒業生で20年ぶりにこちらに参ったのですが、あのころお世話になった寮の事務員の小田桐さんの消息を知りたいんです。どなたかお分かりになる方おみえになりませんか」
すらすらと口をついて出てくる言葉に驚いてしまう。僕はあの頃とこんなに違ってしまったんだなって思う。あのころはこんな言葉遣いはとてもできなかった。ドアの外で上着を脱いだりもしなかっただろう。だいたい大学の職員はすべて自分達の敵だとさえ思っていた。多分向こうだって北溟寮の寮生と聞けばよい印象はもっていなかっただろう。20年の歳月が僕を如才ない大人に変えてしまった。
20年ぶりという言葉が効いたのだろうか、大学の職員は意外に親切だった。
「理学部に小田桐というものがおります。これがその小田桐さんの家のものですので、そちらにいってください。こちらから連絡を入れていきましたので、向こうにいけば分かると思います。」
そういえば昔、小田桐さんの息子さんが人文の学務にいると聞いたことがある。あの噂は本当だったのだ。早速、理学部の学務に行き
「すみません、ここの卒業生なのですが、小田桐さんという方はおみえになりますか」
と尋ねると、小田桐さんそっくりな50がらみの男性が出てきた。マルヒと名刺の交換をし、住所と電話番号を教えてくれる。よくみてみると確かにどこかで見覚えのある顔だった。礼を言い、理学部の玄関から携帯で電話を入れてみる。しかし電話は留守番電話になっており連絡はつかない。仕方がないので先に寮に行く事にする。
それにしても自分ながらよく歩くものだなあと思う。日常の生活では考えられない。自宅と勤務先の中学校はたった500メートルしか離れていないのに、それでも毎朝僕は車で出勤している。それ以外にも田舎は歩いて買い物ができるところは一つもないので、とにかく移動はすべて車である。必然的に歩くことはほとんどなくなる。体重は増え、健康診断では高脂血症の診断で要注意判定を受ける。考えてみれば全く不健康な毎日だ。
途中の弘南電鉄の踏み切りで寮生の黒柳さんとすれ違う。相変わらずのさわやかな笑顔である。
寮につき、早速寮務委員会室に入れてもらう。79年から83年にかけての資料を出して利用できそうなものをコピーさせてもらう。決定的な資料がないのは相変わらずだが、断片的な記述からだんだんと当時の流れの輪郭が明らかになってくる。
79年の会計検査院の通達の後、学長会見が1回持たれている。これは中田寮長のときだ。これを引き継いだ古田土寮長は80年の夏に学長会見を要求してけられ、11月に時期を引き延ばされる。そして満を持して開かれたのが80年11月15日の学長会見。古田土寮長が牛乳パックに日本酒を入れてチューチュー飲みながら会見に赴いたという、亡くなった氷室さんが鷹寮のやつに赤いダウンジャケットを引き破られたという、あの学長会見がこれだ。学園町や学内の自治会から轟々の非難を受け、釈明文を出したりしながら、80年の前期は終わっていく。
この混乱の中で寮長を引き受けたのが今は亡き山岡さんだ。寮長になってすぐの山岡寮長は12月8日の評議員会という山場を迎える。ここで炊フさんが切られてしまってはたいへんだというので、座り込みをすることになる。これがジョン・レノンの射殺事件とシンクロすることになる。結果的にこの評議員会では決定的な結論は出されずに終わる。
この後、1月にももう1回評議員会が行われたのであるが、これは一部の寮生、学生の妨害により流会になる。ここにいたって、寮自治会はだんだんと機能不全に陥ってくる。寮務委員会は主体的な判断を下す能力を喪失し、周りの雰囲気や、威勢のいいアジテーションに行動を縛られていくようになる。
その最大の犠牲者は寮長の山岡さんだった。任期の途中から山岡さんの目はうつろになり、的確な指示が出せなくなってしまった。本当は少数派だったのに多数派(ボルシェビキ)を名乗ったレーニンをたとえにすればやや言い過ぎかもしれない。でも、それに近いような状況が北溟寮を覆っていたのは事実である。自動車を崖まで走らせ、どちらがブレーキを我慢できるかというレースがジェームス・ディーンの映画に出てくる。あのチキン(臆病者)・レースのような状況だった。誰もが自分が臆病ではないことを証明するために、「もうこれ以上は何をやっても無駄だよ」という言葉を胸の奥にしまいこんでいた。そして、威勢のいいことを言う一部の寮生の言葉に、当然のような振りをして賛成票を投じていた。
このとき、次の寮務委員、特に寮長を誰がやるかは非常に難しい状況におかれていた。このまま学長や評議員を物理的な力を使ってでもこちらの言うことを聞かせるんだという方針で進んでいけば、寮生の多くがついてこれないのは火を見るよりも明らかだった。
でもここで運動を引いて条件闘争に移ろうといえば、一部の元気のいい連中が猛反発をして、それなりに寮内世論を形作っていくのも目に見えていた。そんな閉塞状況で寮長を進んで引き受けたのが柴橋だった。
柴橋は岩手県は雫石高校の出身で、高校時代は野球部のキャプテンであり、農業土木を専攻していた。カリキュラムがきつくて留年の危険が非常に高い農業土木で、ただでさえ寮務委員をやるのは大変なのに、柴橋はそんなこと気にもしなかった。附属病院の献血にいって、他の寮生が200ccの血液に5000円をもらって大喜びしている横で、「こんなお金はいただけません」と、たった一人そのお金をつき返していた。そんな男気のある男が柴橋だった。
この柴橋寮長のときに起こったのがいわゆる「泊り込み」である。1981年7月14日評議委員会の日。この日、寮務委員会が提起した行動方針はただの座り込みだった。しかし、この方針は様々な偶然や突発的な行動によって全く無視されてしまう。特にホモツグのおっさんによる窓の鍵をあけての内部侵入は想定外であったであろう。
ただ僕も含めた一般寮生はずいぶんとのんびりした気持ちでこの泊り込みに参加していた。一部の寮生の「どうせやるんだったら『いちご白書』みたいに女の子も入れてやりたかったよな」という声を僕は覚えている。しかし、その一方で寮委員会の方針が全く無視され、それについて寮生が全く疑問を覚えなかったことは、寮務委員、中でも寮長の柴橋にとってはかなりのダメージであったことが想像される。泊り込みの場面でも、全く判断停止状態に陥り、らしくない表情でおろおろしていたのを覚えている。
この出来事の後、柴橋の生活は大いに荒れる。酒もタバコもやらなかった男が缶ピースをすい、大酒を飲むようになった。不孤寮の女の子と仲良くなり、寮に帰ってこなくなった。バイクの免許を取り、一人遠くまで旅をしていた。そして結局、柴橋は寮長の任期を終えると同時に寮を出て行った。その後、大学自体も辞めてしまったと聞いている。僕は寮の同期生として、この柴橋だけには、何ともいえない、申し訳ないような、悲しい思いを持っている。
けちなチキンレースにはまり込んで、仲間を見殺しにした自分。柴橋が悩んでいるときに何も声をかけてやれなかった自分。そんな自分を思い出すと、全く情けなくなっている。
その柴橋の後、寮長には誰もなり手がなくなってしまった。有能で男気のある、寮長にふさわしい連中が皆、やる気を無くしてしまっていた。そんなどうしようもない状況で寮長になったのが僕だった。半分は柴橋に対するせめてものお詫びの気持ちだった。僕は寮費の滞納を解消したり、タバコの自動販売機を設置したり、これまでの活動をパンフレットにまとめたりという、細かな仕事をして任期を終えた。
寮務委員会室で資料をあさりながらそんな昔のことを思い出していた。今ならもっと利口に、冷静に行動できるだろう。でもあのころの未熟な自分にはあれが精一杯だったのだろう。寮生活の思い出は甘いような苦いような味がする。寮生活の思い出を甘いばかりの思い出という奴がいたら、僕はそいつを決して信用しないだろう。そいつはきっと感受性のどこかが壊れているに違いない。
資料の整理が一段落したので、小田桐さんのおうちを訪ねることにした。寮務委員会室から携帯で電話すると、懐かしい小田桐さんの声が聞こえてきた。なんでも弘前南高校のそばにお宅があるということだった。早速マルヒとタクシーを拾ってでかけることにした。タクシーの運転手さんに
「平菊というお店のそばなんですけど」というと
「ひらぎく?白菊というお店ならありますけど」
と言われていまった。津軽弁のヒアリング能力がだいぶ落ちてしまっているようだった。
電話でお聞きした場所から細い脇道を歩いていく。青いホンダの車が泊まっているところがお宅だと、さっきお嫁さんが教えてくださった。ふと顔を上げると、杖をついておばあさんが立っている。小田桐さんだ。寒い中、外に出て我々を迎えてくださったのだ。恐縮して中に入れてもらう。小田桐さんは昨年と一昨年の2回、軽い脳梗塞を起こされて、ややお体が不自由になっているとのことだった。
その発病のとき
「自分がどこにいるか分からなくなってしまって、もしかしたら自分は源平の時代にいるかもしれないと思ってしまったの。それでどうせなら源氏のほうがいいってずっと思っていたの」
「お医者さんに話せますかって聞かれたから、『妻を娶らば才長けて、見目麗しく情けあり。朋を選ばば書を読みて、六分の侠気四分の熱』って歌ってあげたら驚いていたわ」
おもしろいことを言ってくださる。
「僕達のことを覚えていますか」
って聞いてみると、うれしいことにしっかり覚えていてくださった。何人か名前を挙げてみると、すべて記憶して見えたのだが、なぜか中田さんのことは覚えてないと言うことだった。脳梗塞のとき、そこのところの記憶だけ障害を受けたのかもしれない。
「あの頃は寮費の滞納が多くて、ずいぶん苦労しました」
しみじみと言われると胸が痛んだ。
古田土さんや粂田さん、多田君などから来た年賀状を見せてくださる。先輩達の意外な一面を見たような気がしてちょっと驚く。
お嫁さんがおすしをとってくださって、それを頂く。お姑さんが少しでも元気になるように、話し相手を大切にしているのだろう。よく気のつくいいお嫁さんだなあと思い、遠慮なく頂いた。
昔、自分達が小田桐さんにどれだけお世話になったか。そしてそれを今でもどれほど感謝しているかを、小田桐さんにお話した。小田桐さんはやや障害が残る口調で
「そんなことないですよ」と言われた。
ずっとお話をしていたかったのだが、お体に障るといけないのでお暇することにした。もう小田桐さんにお会いすることは2度とないかもしれないと思う。今日、小田桐さんにお会いできたことは、ものすごくハッピーなことだったのだろうと思う。名残惜しい思いをいっぱい抱えながら、寮までの道を歩いて帰っていった。僕は途中で1回立小便をした。
寮に帰るとその日はたまたま炊フさんとの懇親会の日だった。僕達も特別に参加させていただくことにした。会が始まる。司会者は長くフランスに住んでいた帰国子女で、やや日本語が不自由だと言う。そのたどたどしい司会ぶりが北溟寮らしくて非常に好感が持てた。そのあと、炊事部の担当者が現れ、喫食率ランキングが告げられる。なんと1位は100パーセント。それ以外にも90パーセント以上がごろごろしている。昔ならとても考えられない数字だ。
卒寮生ということで我々にも挨拶の順番が回ってくる。僕は司会者と炊事部の子のたどたどしさがたいへん好感が持てたこと、こうした何事もきちんとしないところをこれからも大切にしてほしいことを述べた。マルヒは本当にうれしそうに「ナムコに入りたい人はどうぞぼくのところまできてください」なんてしゃべっていた。
会の最後は恒例の「都も遠し」
ちょっと優男で、女をだましていそうな寮長が出てくる。昔だったらここで「今日はどこの女のとこにいってきたんだ」とか「かっこいい-、すてきー」くらいの声はかかったものだが、今はそんな雰囲気はない。厳かに太鼓が打ち鳴らされ、序章が始まる。「うわっ、真面目」なんて思う自分は古い人間なのだろう。
昔よりずいぶんゆっくりなテンポで寮歌は歌われた。旧制高等学校時代はもっともっとゆっくりだったらしいけど、それに近づいているのかもしれない。僕らのころが多分一番早いテンポだったのだろう。肩を組み、大声で寮歌を歌っていると、昔にタイムスリップしたような気になる。小田桐さんに会えたことといい、この会に出られたことと言い、なんて今回の旅はラッキーなのだろうと思ってしまう。
その後二階の談話室で寮生さんたちと宴会に突入する。先日お知りあいになったメンバー以外に20名ほどの寮生さんが集まってくる。昔の寮生活のお話をして盛り上がる。
タクマが北鷹の風呂場に乱入して、風呂桶で出身をやらせた話、隣室の先輩がホモであることをカミング・アウトして誇りを持って生きていた話。
下山さんが北溟寮でどんなことをやっていたかを教えてあげると、「あの下山先生がですか」と驚いている八戸出身の寮生さんもいた。
下山さんは八戸ではたいへん有名な先生で、柔道部の顧問時代、自分の教え子が押さえ込まれた時に「金玉つかめ!」と叫んでしまい、柔道の審判資格を失ってしまったと、その寮生さんが教えてくれた。
気をよくして自分達のバンドのCDをくれる寮生さんもいたり、りんごを盗んでどぶろくを作るのが趣味だと言う寮生さんもいて、そのどぶろくがいかにうまかったかを得々と話してくださった。横浜の戸塚出身だというこの寮生さんはもう7年ほども寮にいるということだったが、雰囲気が昔の寮生に一番近い感じがして好感が持てた。きっとあのころ同じ時期に寮にいたら親友になれただろうと思った。
マルヒがもっていた昔の寮の資料を見せると大いに喜ぶ。そりゃそうだろう。80年に入寮した自分達に置き換えれば、60年安保世代の卒寮生が遊びに来たようなものだ。パンダ以上に珍しいだろうと思う。「都も遠し」と「旧制弘高校歌」は今でも歌っているけど、「逍遥歌」と「北溟小唄」は今は歌ってないと言うことだったので、ムトウと、たまたま遊びにきていた田中さんという卒寮生さんと歌って見せる。
この田中さんというのは、前述の橘さんと同期で、愛知県は三河の名門時習館高校のOBだ。
マルヒとはネット上で以前からのお友だちだそうで、旧制高校お宅と言う共通点を持つ。また高校時代山岳部でならしたというような点でも共通しており、ジャージ姿で日本中どこでも出かけていくところなど、相当の変わり者である。この田中さんとは翌日の飛行機が同じで、僕達が知らない時代の北溟寮について、興味深いお話をたくさんお聞きした。
僕達が卒寮して6,7年ほど立った1990年あたりで北溟寮は炊公化の方針を捨て、受益者負担を受け入れたのだそうだ。そのときには三日間連続で寮生大会を開き、寮長以下寮務委員が説得に一部屋一部屋オルグに回って、一人一人の寮生を論破していったのだそうだ。
そうせざるを得ない寮内の状況があったのだろうと、なんとなく想像をする。200名あまりの寮生が、寮生だと言う共通点だけで政治的な運動を行っていくのは、もう限界に近づいていたのではないかと思う。もしもやるのなら、思想を同じくするもの達が、その仲間だけで運動を起こし、それに共感する寮生は、それぞれの立場で協力をしていくと言うような、緩やかな連帯のような形が望ましかったのだろう。
もう既に僕達のころから、運動にはかなりの無理があった。柴橋のような有能な奴が学校を辞めざるを得ないような精神的ダメージを受けてしまう運動には、何らかの問題があったのだと、今にして思う。炊公化の方針を捨て、現実路線を走り始めた北溟寮はその後、下水道の問題でも一度大きくもめたらしい。また、これも受益者負担ということなのだろうか、廊下の掃除とトイレの掃除は寮生が交替で行っていると言う話も聞いた。
バブルの時代には入寮生の不足に大いに悩まされ、入試の折には募集ビラを作成し、入学式には寮内にモデルルームを設営して、新入生とその親たちに見てもらったそうだ。そうまでしても入寮生は定員の半分以下であったという。現在の北溟寮の入寮生は確か120~130人とお聞きしたが、バブルの頃には100名そこそこだったそうだ。3年生以上はみんな個室だったと言うから実にうらやましい。
今でも3年以上の寮生は個室が多いという。僕は4年間の寮生活で1回も個室を経験したことがなかった。1度だけ4年生のときに同室の菅原君にお願いして一週間個室生活を味わわせてもらった。でもそのときも菅原君があまりに気の毒で、1週間で戻ってもらった。
現在の北溟寮が直面している問題がなんなのか、聞く機会がなかったのでよくは分からない。ただ、北鷹寮においては昨年度、寮自治会解散決議案が出て、寮務委員が全員辞任するという事件があったのだそうだ。そのため今年度の北鷹寮の新歓は北溟寮が指導してやったのだと、寮生さんたちが自慢げに話していた。
同じく北鷹寮3階では新入寮生が全員集団退寮するという事件も最近起きたという事だ。僕らが寮生の頃にも、北鷹の、特に3階の、学ラン着て「オッス」なんて雰囲気には、全く嫌な印象しかなかったけれど、北鷹の連中にとってはあれはあれで思い入れ深いものだったのだと思う。それが新入生に全く拒否されてしまうと言うことには、大きな時代の流れを感じてしまう。
昨年の4月には北鷹寮の屋上から寮生が転落して死亡すると言う事件も起きている。何か学生の質や考え方が大きく変わりつつあるのだろうと思う。
予算的な裏づけがないので何時になるかは分からないが、ゆくゆくは北溟寮も新規格寮に移行していく方針があるという。寮自治会としても原則的にはそれを受け入れていくと言う方針だそうだ。というか、その前に、大学が法人化するとか、北奥羽三大学(弘前大、秋田大、岩手大)が統合するなんていう話もあって、弘前大学自体の存続も数年先には分からなくなっている状況だそうだ。
飛行場に向かうバスや飛行機の待合室で田中さんからお聞きしたぼくの知らない最近の北溟寮の状況には興味深いものがたくさんあった。そして、それぞれの時代時代で、寮生は懸命に寮生活を生き、自己の人生の節目をそこで作っていったのだろうと思った。
今回の旅は自分達の寮生活を振り返るためのものだったのだけど、自分達より若い人々の寮生活にも触れることができて、余計に意義深いものになったように思う。僕は寮生活には甘苦いとしかいいようのない思いを持っている。それが少しずつ発酵を始めて、うまい酒になりかかっているのかもしれないと思った。昔は18時間かかって急行「きたぐに」大阪行きで家に帰った。今は飛行機で1時間あまりで名古屋に着く。それを田中さんは「あの頃は本当に贅沢な時間の使い方をしてましたよね」と言った。
本当にそうだったと思う。お金も、地位も、余裕も、確信もなかったけれど、時間だけは豊富にあった時代。あの時代を北溟寮で過ごし、いろいろな人間に出会えたことを本当に幸福だったと、この旅を終えて改めて思った。
現役の寮生さんたちは優しく、とても礼儀正しかった。先輩が酒を飲み干すと即座に酒を注ごうとするようなところは、まるで北鷹寮のようで気に入らなかったが、それも時代の流れで、年寄りが文句を言う筋合いのことではないだろう。楽しい時間を過ごさせて頂いて本当に感謝している。
翌朝、マルヒとは一言も挨拶もせずに、別れた。それがいかにも北溟寮的で気に入っている。かえって数日して旅行記を二人で競作しようと言うメールが来た。マルヒのセンスにはとてもかなわないけれど、旅行中のマルヒを冷静に見ていた自分の視点を生かせば、おもしろい物が書けるかも知れないと思った。書いてみると意外と長いものになってしまい驚いている。
兵藤さん、またいつか弘前にいって、小田桐さんに会って来たいものですね。
《2021/6/21 再録 ©2003 Osamu Muto, ALL RIGHTS RESERVED》
◆この記事を2003年に掲載したあと、当のシバハシから掲示板に投稿があってムトーとやりとりしたことを思い出す。
◆それにしても。この旅からもう20年近くたってしまった。あの時寮生だった諸君も、いまは、あの時のムトーやマルヒの年齢になっているのだ。この記事を見てくれることがあるだろうか……。
《2021/6/21》