第三十六夜 寮食堂をめぐって・前編

歴史のなかで

食券

マルヒが入寮した当時、北溟寮の食堂では朝・晩の2食が提供されていた。寮食を食べる場合は事前に月単位で炊事部に申告する。すると、月初に『食券』と称するカードが配布された。寮食を頼むかどうかは、個人の自由である。たしか1週間単位で停止することができたように思う。
 『食券』は大きめの封筒ぐらいの縦長のカードで、日付と朝・昼・晩をチェックする項目が印刷されていた。朝・晩しか供給されていなかったのに『昼』のチェック項目があったのは、以前は昼食をだしていたということだと推測される。

 各地にある学生寮に関する資料を読むと、食堂を寮生以外にも解放していた所も少なくなかったようだ。特に旧制時代から続いていた寮は学校内に建っていることが多く、昼食をだすことは合理的だったことだろう。
 食堂で各自の飯を受けとる前に、このカードを『食券当番』にさしだしてチェックしてもらう。ただしこの各自『食券』スタイルは79年頃には廃止され、代わりに寮生の名前が並んだリストにチェックする形に変わっていった。

旧制時代の賄い

 遠い明治のむかし、旧制一高に寮が開設された当時、寮の食堂は出入りの業者が運営していた。しかし寮生の「飯」に対する不満は多く、賄征伐(まかないせいばつ)なる蛮習がはじまったのはこの当時だといわれている。また北溟寮ではアタックという言葉も残っていた。要するに盗食である。

 各地の旧制高校では食堂経営を寮生自治の一環として、自分たちでおこなっていた場合もあるようだ。例えば旧制姫路高の場合、1929年に賄いに関する自主管理がスタートし、経理・人事から運営一切まで寮生の手で行われたという。
 寮食堂を襲った嵐の時代、それはきっと戦中・戦後の食糧難の時代だろう。例えば北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』にもその類の記述が散見されるし、また以前の千夜一夜でも少し触れたように元NHKアナウンサーの鈴木某も、寮といえば炊事部の話を繰り返し書いていた。

経済的基盤は?

 しかしその時、炊フさんの雇用主体がだれかはわからない。(*注 炊「夫」さんの場合と炊「婦」さんの場合があるので、カタカナで炊「フ」と表記する) 
 雇用主体は果たして、国か?学校か?寮生か?これは寮生にとっては自らの負担にはねかえる大きな問題でもあった。旧制高校のように一部エリートだけのための施設であれば、言葉通り「末は博士か大臣か」という人たちの施設であれば、国もそのまま国家の負担として寮の管理維持費をだしていたかもしれない。だが、時代は変わった。

会計検査院

 寮生にとって大きく負担に跳ね返るこの区別。70年代末期の北溟寮には、この3っの形態《公務員炊フ》《学校雇い炊フ》《寮生雇い炊フ》が併存していた。
 ここに牙をむいてきたのが、ご存じ「強気を助け弱気を挫く」会計監査院。検察庁や警察の活動調査費についてはなにもいわないくせに、学生運動が弱まった各大学に対して、70年代の末期に『負担区分』を楯に次々と指摘をしていった。指摘の次は国会への「報告」となり、問題は大きくなるんだということらしい。
 この事態に対して東大・京大などの一部エリート大学は別として、各国立大学の文部官僚・学長は、あっさりと首を縦にふり、公務員炊フさん退職後の不補充または配置転換などのあからさまな行動に走った。弘前大ではマルヒが寮にはいった次の年、すなわち79年の夏前に会計検査院からの指摘が発覚。

 ここから寮生はいつ終わるともない戦いを続けることになる。

ことの発端

 そもそも会計検査院がなぜ国立大学の寮に対する支出に口をだしたか?それは1960年2月(昭和35年!マルヒはまだ1歳だ…)に文部省から各国立大学にだされた『2.18負担区分通達』-正式には『学寮における経費の負担区分について』という方針に起因する。

 『2.18負担区分通達』とはいわゆる受益者負担主義にもとづいて、寮における水光熱費=電気代、水道代、燃料代等を学生に負担させよ、という方針である。今、考えるとしごくもっともな話ではある。寮に入っていない学生は自分で電気代・水道料などを払っているのであるから、と。
 しかし、しかしである。寮とはいったいなんのためにあるのか。どんなに貧乏でも大学で学び、生活するために存在する厚生施設ではないのか。教育の機会均等とはいったいどういうことなのか。つきつめれば、税金を使って国立の大学があるのはどうしてなのか、といった問題にまで飛躍していくのである。
 こうしてだされた『負担区分通達』であるが、60年代から70年代にかけての学生運動の嵐のなかで、ほぼ反古とされ、各大学ごと、大学-寮生間で文部省の方針に反するかたちで合意がされていたといっていい。なので70年代末であっても、普通に公務員であったり学校雇いであったりする水フさんが存在したというわけだ。

 ちなみにこの『負担区分通達粉砕!』と『炊公化実現!』『○○管規撤廃!』で寮問題大三元ロンっである。さらに『廃寮阻止!』が加わるとリンシャンカイホウである。
 とはいえ『負担区分粉砕』にしろ、『炊公化実現』にしろ、例えば『米タン輸送阻止』とか『佐藤訪米阻止』とか『日韓条約粉砕』とかの政治スローガンに比べると、あまりに生活臭が強く当時でも地味な課題だったことは想像に難くない。寮が学生運動の拠点であったため、またそれをつぶそうという文部省の意志により問題が顕在化していったと思われる。

この項、次に続きます。

(Dec 29, 2002)

ここから、北溟寮・寮食堂問題について一連の投稿が続きます

《2021/6/20》

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