第十三夜 寮生御用達・食べ物屋編

弘前の名店??

寿松庵

四中わき、桔梗野温泉のむかい、北溟寮から一番近い場所にあった食堂が《寿松庵》だ。『ジュッ』『ショウ』『アァン』と一音節ずつむやみに力をこめて発音すると、だいぶ当時の感覚が蘇ってくる。
 ここの売り物はなんといっても《高速ラーメン》。といって、そういう名前のラーメンがあるわけではない。普通に、ただラーメンと注文すればいい。しかし、その注文からでてくるまでが異様に高速なラーメンなのである。どれくらい速いかって、3階のエゾガワのおっさんが計測したところによると、テーブルの上に置かれるまで36秒フラット!!これでは、いつも寿松庵にあった別冊少年ジャンプを読む暇もない。
 ラーメン自体は煮干しのきいたスープと、すこしだけ平べったい麺だったように記憶するが、その平べったい麺が高速の秘密かと思われた。あとカレーライスを頼むと、ある時とない時があるのが不思議であった。
 日曜日の昼どき寿松庵にいくと、たいてい寮生のひとり、ふたりはいたものだ。
 しかし、94年入寮の田中さんの投稿(掲示板参照)によると『寿松庵にいったという話を聞いたことがない』『97年には閉店、不動産屋の張り紙』とのことで、ああ、時の流れを感じます。

飯村食堂

 北溟寮生なら、否、弘前大学に学んだものなら《飯村食堂》の名前を知らなければもぐりだろう。幅一間ほどの狭い間口、6~7メートルくらいの奥行き。右側にカウンター左側に小さなテーブルが三つほどあったろうか。
 驚異の二大メニューにんにく焼定食としょうが焼定食。(と書きながら、値段のことを忘れている自分に気がついた。にんにく焼280円?、しょうが焼き360円?)
 白衣を着たおやじがもくもくとフライパンをふるい、目がくるりんっとした小柄な奥さんがかいがいしく働く。山盛りのどんぶり飯、次から次へ焼きあがっていく肉の香ばしい匂い。学生のためにある定食屋とはかくあるべし、というくらいの名店であった。ひとつだけ難点をいえば、みそ汁があんまりうまくなかったこと。これも開店から時間がたったら、のことで開店早々にいけばノーマンタイ。

2003年弘前訪問時の写真。《にんにく焼定食》 この時「20年ぶりです」と店主ご夫妻にご挨拶した。

めん房たけや

 鳴海商店の斜め前で、《めん房たけや》が営業を始めたのは80年頃だと思われる。普通の家の一角を改造するようにつくられた小さな店。テーブルがふたつ、こあがりにもテーブルがふたつ。マルクマがこの頃、寮をでて桔梗野のアパートで暮らすようになっていた。たけやは、そのマルクマのごひいきで、マルヒもよく一緒にいったものだ。
 たけやのおやじは、弘前城のそば(工業高校の近く)馬屋町の《かふく亭》で修行をしていた、とかいわれていたが確証はない。寡黙なおやじだったが、常連のマルクマといくと小鉢なんぞをサービスしてくれたりした。
 そばは細く、あくまでも白。自分でそばうちまでしている本格派。でも、お店自体は決してきどっている雰囲気はなく入りやすかった。よくお世話になったのは昼どきだけメニューにあった定食-たまご丼にたぬきそばのセットで500円也。うまいのは間違いないし、量的にも満足できた。
 たけやはその後、商売繁盛、はじめの場所から少しだけ移動して本格的なそば屋のような店構えになった由。

味平ラーメン

 第二大成小学校の横、あんまり綺麗とはいえないラーメン屋なのだが、深夜2時頃までの営業だったので時々いくことがあった。たっぷりバターの塊がはいった味噌パターラーメンを注文した。

ポニー

 「ジャンボハンバーグ、ライス大盛り」これを唱えるだけであのデミグラスソースの味がよみがえってくる。この頃、日本では《すかいらーく》や《デニーズ》などロードサイド型ファミリーレストランが続々と建てられていた。しかし、みちのく弘前にはこの波は届いておらず、親方町にあった老舗の洋食屋ポニーが国道沿いに開店した《ポニー》バイパス店がひとり24時間営業で気を吐いていた。
 ここは普通の寮生にはあまりなじみがなかったかもしれない。しかしイタモトのサニー(『第二十四夜 イタモトの受難』参照)という強力な移動手段をもっていたわれわれ1階生は人も寝静まった深夜2時過ぎにでかけることが多かった。カジやんにいわせると『ポニーの四季』、桜散る春、殺虫灯がばちばち音をたてる夏、枯葉舞う秋、見事な氷柱ができる冬、ひたすら「ジャンボハンバーグ、ライス大盛り」を注文し続けるのであった。
 深夜のこととて、ほとんどの場合われわれしか客はいなかった。
 いまはもうなくなったと聞いているバイパス店。親方町のポニーはまだあるんだろうか。あのハンバーグはまだ食べられるんだろうか。。ちょっと感傷的です。

ピエモンテ

 人呼んで『野菜地獄』。
 城東団地から国道にぬける道ぞいにあったイタリアンレストラン。ええ、確かにちょっと見は、弘前には珍しいこじゃれたイタリアンレストランなんです。わらにはいったキャンティワインの空瓶なんか飾ってあったりしてね。
 ところが人は見かけによらぬもの、ここ《ピエモンテ》で注文しなくちゃいけないのは、お昼時の定食なのだ。しかし定食のメインについては、今、思い出そうとしても思い出せないくらい影が薄い。スコッチエッグとか、ピーマン肉詰めとか、せいぜいその程度だったような気がする。
 特筆すべきはその横についている生野菜。レタス、キャベツ、細切りのにんじん、トマト、これが文字通り山のようにつけあわせとしてついてくる。直径30センチのお皿を想像してほしい。右のすみにメインがちょこんと乗っている。そのほかは、野菜、野菜、野菜。15センチの高さにピラミッド状にそびえたっている。
 われわれは、ピエモンテにいってこの野菜を完食すると『勝った』と表現した。ドレッシングがかかっている部分は、まあすらすらと食べていける。そのうちにドレッシングもしみ通らない核心部に到達すると、後はひたすら塩をかけて食べていくのだ。
 またある夏、日本全国で極端に野菜が不作、新聞などでレタスの値上げが報じられる騒ぎのただ中でも、ピエモンテは価格はあげず・野菜の量は減らさず、という態度で寮生の尊敬をかちえた。

とんちんかん

 やじるし型の鼻をもった男マツがこよなく愛したラーメン屋が西弘にあった《とんちんかん》である。このマツという男なにかというと夜「とんちんいごっ」(現代語訳「とんちんかんにいきましょうよ。」)と叫び続けていたという。
 78年の入寮当時、この店は《くまごろう》という名前で、今は亡きやすし師匠に似たおやじが経営者だった。しかしこのおやじ、客にはみょーに腰が低いくせに、アルバイトには異常に居丈高、バイトを店で怒鳴りつけるようなやつだった。ある時、急に閉店、ばくちで負けて夜逃げしたとのウワサが広がった。
 このくまごろうの後に居抜きで入ったのがとんちんかんだった。お店のオリジナルはとんちんめん-五目あんかけラーメンでした。

 みなさんの年代それぞれの寮生御用達の店、投稿お待ちしています。
(May 28, 2001)
 追記 なんと一番上にあげた『寿松庵』は『寿松』ではなくて『寿松』でした。寮祭のパンフレットなどの広告から発覚しました。すると『ジュッ』『ショウ』『エェン』と、かように米語風の発音となるわけです。謹んで訂正の上お詫びいたします。とかちて。
(Jan 25, 2003)

◆《寿松苑》は歴史の闇に埋もれ、もはやネット上にも痕跡がない
◆《飯村食堂》は2014年12月に閉店してしまった。その年明けなんとなくテレビを見ていると《飯村》の閉店の日のドキュメントをやっていて見入ってしまった。
  【弘前経済新聞 2014/12/10】https://hirosaki.keizai.biz/headline/188/ 
  【テレビでた蔵】 テレビでた蔵
◆《めん房たけや》は、ひとブロック東側に移転し、ますます商売繁盛しているようで結構である。
◆《味平ラーメン》も《寿松苑》同様すでに昔を偲ぶよすがすらない。
◆《ポニー》この記事を再掲するにあたって調べると、なんと《ポニー》の味を継ぐ店が大鰐にできた由。次に弘前に行く理由ができたというものだ。大鰐町の《WANY》ワニー というんだそうです。
  【ローコレ】https://locolle.com/?page=article&id=1347
  【つがる時空間】https://blog.tugarujikukan.info/archives/wany
◆《ピエモンテ》は多くの弘前市民の記憶に生きているようでググるといくつもの記事が見つかる。
◆《とんちんかん》は西弘から市の北側方面に移転した模様。おなじ場所では《くま吉》というラーメン屋が営業してるようです。
  【食べログ】https://tabelog.com/aomori/A0202/A020201/2000011/

◆最後のフレーズ『とかちて』ですが、これは1階中心に少しだけ流行した言葉です。もとは『とかいっちゃて』すなわち『なーんちゃって』と同じ意味です。
《2020/9/13》

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