第十四夜 ストーム考
ふむ、これがストームですかい
各階談話室でおこなわれているコンパが絶好調になる頃、キムラゴリラが玄関のマイクをつかみ絶叫しはじめた。
『われわれはぁ、ただいまから北鷹寮、朋寮にストームを敢行しますっっ、ただちに玄関に集合してくださいっっ』
嗚呼、ストーム、甘美なるこの響き。マルヒの胸は高まった。
松本深志のファイアストーム
そもそも、マルヒが旧制高等学校の文化に興味を抱いたのは長野県松本深志高校に在学中の頃である。《深志》には旧制の文化が色濃く残り応援団管理委員会が編集する歌集には、ナンバースクールからネームスクールまで各旧制高校の寮歌・校歌が並ぶという珍しさだった。(全校生徒が応援団という名目から、普通の学校でいう応援団のことを深志では応援団管理委員会、略して《応管》と呼ぶ。)
その深志でおこなわれるファイアストームは、凡百の新制高校で実施されている『お手手つないで火のまわりでフォークダンス』などとは一線を画したもので、まさに原始の記憶を呼び起こすような激烈さと、青春の感傷に彩られた一大ページェントであった。
一週間にわたって開催される文化祭-とんぼ祭の最後を飾り、校庭の真ん中にうずたかくつまれたデコレーションなどに火がはいる。嫋々とわきあがる寮歌、記念祭歌。
♪めぐり来ぬ 今年の秋の記念祭
♪悲しみ多き若き日の うれひを友とわかつべく
♪この丘の上にうちつどひ 命の歌を歌はばや
♪逝きにしし 三年の夢をしのびつつ
♪夕べの丘に迷う時 あかね色なす星くずは
♪われらの上にまたたきて 遠き思ひを語るかな
(『祝記念祭歌』国見金熊・作詞 きんくま、と読む。戦後の深志にいたドイツ語(!)の先生)
やがて歌は『北辰斜めに』(七高造士館)、『ああ青春』(松高)などの威勢のいいものにかわっていく。
「走るぞぉぉぉぉ」
声がかかる、3人、5人ずつ肩をくんで『わっしょい、わっしょい』のかけ声とともに500人を超える男たち(+ひとにぎりの女性)が大地をどよもして炎の周囲を疾駆する。数人で肩を組んで丸くなって『金色の民(こんじきのたみ)、いざやいざ、大和民族いざやいざ、戦わんかな時きたる、、』とがなりながらやみくもにジャンプして踊るいわゆる『タミ』が始まるや、狂熱いよいよ高まり、応管が消防ホースから水流をほとばしらせる。
2時間ほどだろうか、歌い、走り、ジャンプし、がなり、、やがて、中心部の火が小さくなるころ、生徒の体力はつきる。動から静に。ファィアストームに参加した者は残り火を中心に、幾重にも円を描き腰を下ろす。応管の団長から声がかかる。
『話したいことがあるものは、いまから前に。』
あるものは感激に涙し、あるものは絶叫し、あるものは3年間の想いをこめて、みつめる仲間の目の前で自分の心のなかを語っていくのだ。
いいですか、これを酒なしにやるんだからたいしたものでしょう。(すこしだけ飲んでるやつがいるのも確かです。)
もっとも、すでにそれから20年以上たっているので今でも深志でこのようなファイアストームが行われているか否かは知らないが。
旧制高等学校のストームの記憶
いま少し、過去のストームについておつきあいを願いたい。昭和初期の旧制山形高を舞台にした自伝的小説『ひかり北地に』(戸川幸夫著 郁朋社 1987年)より引用します。新一年生が歓迎ストームの翌日、仕返しのストームをしかける場面だ……
『だれかが電灯を消す。デカンショを喚きながら、見よう見まねでドタン、バタンと一寮から始めた。階下はほとんどが自分らの部屋だからもぬけのからのはずだが、威勢よく竹刀で叩きまくる。
二階への階段まできてみると、風呂場から持ち出したらしい洗い場の簀の子が並べてあって登れない。
ドタン、バタン足踏みをするばかりだ。
「どうしたッ、早く登ってこい!」
二階から嘲笑が起こる。
「よしッ」
一人が簀の子をかけ上ろうとして、すべり落ちた。
「はずセッ、はずせッ」
鉦の男が怒鳴る。簀の子の横から二、三人が登っていった。とたんにザーッと水を浴びせられた。
白い粉のようなものが降ってくる。灰だ。
ようやくの思いで二階に上った。二寮も三寮も同じだった。いや攻防戦は、ストームが進むにつれて激しくなった。』
次は『友の憂いに吾は泣く』(ドナルド・T・ローデン著 講談社1983年)からストームに関して述べている箇所を引用します。これはなんと米国人の手による旧制高等学校の研究書です。
『旧制高等学校の、典型的なストームである「歓迎ストーム」とというのは、寮の消灯後の午前一時から三時頃の間に行われた。最初の注意信号として叫び声が突然わきおこり、下駄でドンドン床を踏みならし、階下の自習室ではドラが打ちならされる。その時がやってきたと知った新入生たちは、クモの子を散らすようにしてベッドの下に避難し、頭には毛布とかフトンをかぶって息をひそめる。
新入生たちは、足を踏みならす音や叫び声がだんだん大きくなり、階段をのぼって近づいてくるのを知るとますます縮こまり、身を固くして震えるのであった。激しい騒音のために、木造の寮はあたかも地震のときのように振動した。
上級生たちは、階段のてっぺんに着くとフンドシ一枚に頭にハチ巻、手には竹刀やほうきを、あるいは水の入ったバケツを持ち、攻撃を仕掛ける者のようないでたちで、新入生のいる部屋におし入るのだ。二、三分の間にこの攻撃者たちは、彼らの前であわれにフトンをかむって縮こまっている新入生たちを蹴り上げ、たたき、その上に乗ってジャンプしたりした。』
『この「入寮歓迎ストーム」は、おそらく1895年(明治28)頃に一高に始まり、その後地方の高校にまたたく間に拡がった。……さらに、1910(明治43)ころまでは、学生たちはさまざまな儀式のあるたびに楽しみのためのストームを催した。
記念祭のストーム、卒業式のストーム、競技会のストーム、軍事教練完了のストーム、そしてどんな夜でも学生たちが、はねたり、うなったり、押し合いへしあいをして半ば狂いじみた騒ぎをしたくなった時はいつでもストームをした。』
70年代式ストーム
ああ、それなのに、マルヒが現役の頃の北溟寮のストームときたら……
マルヒは北鷹寮の廊下、個室にはいりこんでデカンショや寮歌でも歌いながら、暴れ回るのかと思っていたのだ。しかし70年代は既にそのような行為が許されない時代だった。この頃の弘前大学の寮でおこなわれるストームとは《出身》と《水かけ》にすぎなかったのである。
北鷹寮・朋寮の裏庭にまわりこむと談話室の窓のところにでる。1階から4階までは同じ造りだったから、各階の談話室の窓の真下、ということになる。ここだけが70年代式ストームの舞台である。すでに全階の窓には鷹寮生が鈴なりだ。
「しゅっしーーん」
の声。寮でのコンパを経てきているだけに、声が枯れ果ててでない者もいる。舌が回らない者も多い。
「それでは、いっぱいいただきますっっ」
きょう、何杯めだろうか、この酒。
「わっしょい、わっしょい、わっしょい、、」
一気にどんぶり酒を飲み干す。と、
「ざばーん」「ざばーん」「ざばーん」
順番に各階からバケツの水をかけられる。以上おしまい。
まあ、とはいえ鷹寮の庭に参集する北溟寮生が次から次へとこれを繰りかえすので、全体では2時間ほどになろうか。最後は当然のように寮歌でしめとなる。
たしかにそれまで平穏な高校生活をおくってきてはじめて学生寮なるものに触れる大半の学生にとっては、これでもずいぶんショッキングな行為だったろう。また、今、考えると、これ以上にふみこんで往時のようなストームを夢想すること自体、すでに時代錯誤だったのだ。
学園町まで遠征するストームは、新歓期と、寮役員の改選時におこなれた。北溟寮のある緑が丘から学園町まで歩いて30分ほど。景気のいい行きはともかく、水でぐしょ濡れになった帰りは、きびしいものがあったのは確かだ。特に春先の新歓期、弘前の夜はまだ寒い。
この70年代式ストームに各寮から出発するときには相手の寮に電話して「これからいきますよ」と連絡する。すると、寮内放送があって「あと何分ほどで北溟寮生が到着します、みなさん用意してください」と寮内放送がかかるのである。昔とは違う、といえばそれまで、このストームですら学園町できっちりおこなうと、周囲の職員宿舎から「うるさいので静かにしてもらえますか?」と苦情の電話がはいるという有様だったのだから。
しかし、これだったら、マルクマとわたしが酔っぱらって寮に帰ってよくおこなった行為のほうがよほど往時のストームに近いような気がしませんか?1階あほ連を自称していたわれわれときたら、たびたび泥酔して寮にもどっては、夜中すぎに、
「こんにちはっ、こんにちはっ、せかいのくにぃぃからぁぁ」
などと、いい気分で歌いながら、各寮室のドアを次から次へと、ドンドン、ドンドン、叩き歩くとか、廊下に貼られているアジビラを破り歩く(別項に書きます)、などという事を繰りかえしていたのだ。さすがに顰蹙ものだし、もし、自分がやられたら怒って水ぐらいかけてしまいそうだ。
さて、逆に北鷹寮生のストームを迎える立場も経験した。わたしは1階生であったから《出身》をする鷹寮生のすぐ前、矢面にたたされる。往々にしてやりあう場面などあって面白かった。
「声がちいせーぞー、バッキャロー」
とか、がなるのである。
さらに、1階の談話室の窓枠から身を乗り出しては
「口をあけろ、口を!」
などと叫ぶと、たいてい、まさに《出身》を終わってどんぶり酒を飲み干した(あらかたこぼした)酔っぱらい1年生は、素直に口をあんぐり開ける。
「ざばぁぁん」
そこをめがけてバケツの水をぶちまけるのである。
ある時、ストームを迎え入れる側のわれわれは、鷹寮生にぶちまけるバケツの水のなかに、ついでに小便をいれたり生ゴミをぶちこんだりした。
次の日、北鷹寮から帰ってきたのは、謝罪要求の抗議文であった。
北鷹寮寮務委員会のいいぶんに曰く『神聖なるストームにおいて、汚物やゴミを水に混ぜるとは言語道断、われわれがストームにいってやっているのにそんな歓迎の仕方があるか、われわれは、断固、謝罪を要求する、、』と。
ああ、なんたるちゃ。開いた口がふさがらないとは、このことだった。わたしはストームの事について彼等に説明する元気もなくしていた。
構造的分析
さて、文化人類学の泰斗田中二郎先生の愛弟子にして、人文学科人間科学科(だったっけ?)筆頭卒業生のムチョーどの、なぜストームで《水をかける》という構造だけが生き残ったのか、理由を考察してもらえませんかね……。
(May 30 2001)
◆新制高校で松本深志と同様のファイアストームをおこなっている(おこなっていた?)のは佐賀高校から分割された佐賀西高・佐賀北高・佐賀東高。いずれも新制佐賀高校が分割してできた学校です。佐賀北は、そう、甲子園であの《がばい旋風》を巻き起こした学校。佐賀にもネームスクールである旧制佐賀高がありましたからこのへん、松本と事情が似ているかもしれません。
◆『ファイアーストームと寮歌についての個人的な感想』書いている方は1979年に佐賀西高から鹿児島大学に入学してますのでマルヒとほぼ同年代です。今は鹿児島大学の教員であるという冨山氏は次のように記しています。『もともと寮歌は旧制高校生が自由の精神を発露する手段であり、歌いたいから歌っていたのだと解釈しています。私が高校時代に体験した寮歌は強要されたものであり、自由と自治の旧制高校の精神とはおよそかけ離れたもので、いわば旧制中学の寮歌だったと感じています』
◆わたしが体験した松本深志のケースと違うのは、深志のファイアストームは佐賀に比してずいぶん自由にやっていた、ということです。寮歌指導も決して「強要されたもの」ではありませんでした。好きな奴が歌いたいから歌う。ただし自校の校歌・応援歌については松本深志でも例外的に厳しい指導があったのは事実です。さらに、高校で長距離を歩くイベント(水戸一高、甲府一高などが有名)についても深志では決して強制の学校行事ではなく郷友会という単位で生徒たちが自力で好きなようにやります。ここも違う。この件については別稿を起こす予定です。
◆あれから20年たつがムーチョから構造的分析もらっていない。
《2020/9/16》