第二夜 そもそも北溟寮とは

旧制時代との比較/旧寮、新寮、新々寮

一期校 二期校

私が弘前大学に入学したのは、(否、《弘前大学の卒業生》とはいわずに《北溟寮の卒寮生》と自称する私流にいえば)、私が北溟寮に入寮したのは、1978年の4月のことだった。この年は、国立大学が一期・二期制の入試をおこなった最後の年である。別の言葉でいえば、共通一次世代の前、ということであるが、すでにその共通一次すらセンター試験にかわった今から見れば隔世の感がある。
 この年まで、全国の国公立大学は一期と二期とふたつに分類されて入試の時期をずらしていた。一期校の試験は2月の終わり、二期校の試験はその発表があってから3月の中旬に実施されていたのである。つまり第一志望に一期校、滑り止めに二期校という構造が成立していたともいえる。 
 一期校は東大、京大をはじめ旧七帝大の流れをくむ大学をはじめ偏差値の高い学校である。(逆にいえば一期校だから偏差値が上がったともいえるかもしれない。)
 それに対して二期校のほとんどは戦後、旧制高等学校から昇格したいわゆる《駅弁大学》であった。ついでにこの《駅弁大学》という言葉を説明しておくと、戦後、評論家の大宅某が「駅弁のあるぐらいの駅があるところには大学がある」と揶揄してつけた名称であり、大学の俗化(よく言えば大衆化)を表した言葉だ。
 帝大が全部一期校に分類されたのは確かだが、その他の旧制高校昇格組がどのように一期・二期に分類されたかは不明だ。例えば、なぜ旧制松本高からうまれた信州大学が二期で旧制新潟高を母体にした新潟大学が一期なのか、私にはわからない。旧制高等学校の設立の歴史からいえば松本高・新潟高ともには大正9年、ナンバースクールのすぐ後にできた歴史を持っている。しかし、♪なじかは知らねど、信州大学は二期校、新潟大学は一期校になったのである。だれか知っている人がいれば教えて欲しい。 
 わが弘前大学といえば、ご多分に漏れず旧制弘前高等学校とその他、青森師範学校や戦時中に設立した青森医専などをルーツに持つ正真正銘の《駅弁大学》ではある。

新・旧学制比較

 いろいろと変遷・例外はあるが、おおおむねは上記表が旧制・新制の学校制度である。みるとわかるように、旧制高等学校とは、新制高校の3年生から新制大学の教養部2年までにあたる。戦前の教育制度では《高校生になる》ということは将来を約束されたエリートになる、ということとほぼ同様であった。《末は博士か大臣か》というのは、まさにその文言の通りなのである。
 一高から八高までのナンバースクールに続いて、各地にいわゆるネームスクールがほぼひととおりできた1926年(大正15年)の段階でさえ、入学者数は以下のとおり。
  尋常小学校 2,186,093
  中等学校   77,736
  高等学校   5,833
  帝国大学   6,290
 小学校から中学にあがる割合はたったの3.6%。その中学校からでさえ7.5%しか高等学校には入学していなのである。小学校から高等学校への割合はたったの0.2%。かように旧制高等学校とはひとにぎりのエリートの集団であったのだ。
 その旧制高等学校といえば《寮》と反射的にでるほど、きってもきれない縁にあるのが学生寮であろう。ほとんどの旧制高・大学予科には寮があり、少なくとも1年目は寮にて集団生活をするのが普通であった。親元を始めて離れた戦前のエリート達はこの自治寮の中で人間を学んでいったのである。旧制高等学校にあった教養主義と自治寮の存在、これこそが戦前教育の精華であると私は個人的に信じているのだが。

旧寮 新寮 新々寮

 時代はかわって、私が在寮した1970年代末。当時は、旧寮、新寮、新々寮という奇妙な分類があった。
旧寮というのは旧制時代に建てられてそのまま使用し続けられていた寮のこと。この頃(1970年代末)、全国に名前をはせていたのは(というかマニアに有名だった旧寮の建物は)、北大予科恵迪寮(北大)、松高思誠寮(信州大)、一高駒場寮(東大)などだが2001年現在、往時の恵迪寮・思誠寮はすでになく、駒場寮も廃寮の危機にある。
 このタイプの寮の基本は畳敷き、一部屋に4~6人居住する場合が多いようだ。当時、縁あって信州大思誠寮に冬、宿泊したことがあるが、窓から雪が部屋内にはいってきた。
 新寮というのは60年代~70年代に建てられた寮のこと。旧制時代から使用されていた寮は、前述のように老朽化が目立ってきたのであろう、学生からの要望もあって続々と建て直されていった。その際、なぜか学校から離れた場所に建設されるのだ。一説によると、それは学生運動にかかわっている。といえば、ははんとうなずく人も多かろう。
 旧寮の老朽化に重なるこの時代といえば、60年代安保闘争から70年代全共闘運動まで学生運動の嵐が大学を席巻していた、まさにその時期である。しかるに、旧寮はほとんど全てが学校の構内に建てられていた。そこに学生が大挙して生活していたのである。ここが学生運動の温床・セクトのオルグの草刈り場にならないわけがない。戦前の昔から自治が学生寮の基本であるし、学校・文部省・政府に逆らわないで何が自治か、と思うのも無理はないでしょう。
 そこで旧制時代の寮経験のある文部官僚(?)が、自分の学生生活を想い出し「そうだ、学校から寮を離してしまえばいいんでないかい?」(なぜか北海道弁)と考えたかどうか知らないが、大学と寮を離して建設する施策にでた。わが北溟寮もこの新寮タイプ、ということは、やっぱり大学から徒歩15分のところに建っている。なぜ北溟寮が緑が丘にできたか、という話はまた別項で。
 この時期にできた寮は2人部屋で、別に談話室・食堂がついている仕組みである。さすがの文部官僚もこの頃までは、食堂や談話室がない学生寮をイメージできなかったと、私は見ている。
 新寮といわれたこのタイプの寮も現在では建て直しの対象になりつつあるらしい。北溟寮の東北仲間、山形大学学寮も最近、建て直しの憂き目にあってるらしい。もちろん、当然、寮生は大学当局と戦っている。
 最後に新々寮。70年代後半から、もうひとつ形態を新しくした寮が建ち始めていた。このタイプの寮は個室・メーター制・食堂なし、というのがミソ。つまり全くアパートと同じなのだ。学生が大挙してなにか起こしたりできないように、個室にして食堂-つまり全寮生が集まる場所-コミュニケートする場をなくしている。メーター制? つまり電気代も個別学生の個室に設置したメーターから個々に徴収する、管理は国がおこなう、というわけで、そう《分割して統治せよ》かの大英帝国の植民地管理理論を採用・実践している訳である。(ほんとにそうか?)
 新々寮に泊まる機会があったのが大学3年の夏、熊本大学の寮だった。(寮の名前は失念しました。失礼。)この時は弘前から出発して全国の寮を泊まり歩いて九州は鹿児島までバイクで旅行したのでいろんな寮に宿泊したものだが、ここだけが新々寮。なんか小さい小さい集会室(娯楽室?)で宿泊したが、もともと新々寮に好感情を持っていなかったせいか、その寮の住人ともほとんど話をしなかった覚えがある。

北溟寮の名前の由来

 旧制弘高、すなわち官立弘前高等学校ができたのは大正10年のこと。もちろんそれまでの慣例にならって学生寮が設置された。旧制弘前高校の初代校長は秋田実という方なのだが、かれが命名したことになっている。
 旧制弘高の帽章は荘子の《逍遙遊扁》から採ったもので「虚空に羽ばたき南を図らん」とする大鵬の上に「弘高」の文字を浮かび上がらせたもの。とすれば、大鵬になって虚空に羽ばたく前の魚《鯤》は《北溟》に住むということで北溟寮という名前になったのだろう。


 この秋田実氏は、旧制弘高の初代校長を務めた後、旧制松本中学(現・長野県松本深志高校)の第5代校長になった。この事実を私はずっと知らずにいた。実は、この松本深志は私の出身校である。旧制松本中学は、彼が校長をしている時(1935年・昭和10年)に松本城の二の丸内から市街の北方、高台にある蟻ヶ崎の地に移転した。秋田実氏がその建築に全力を注いだという校舎は21世紀をむかえた現在も現役であり、私もまたそこで学んだ。
 なお北溟寮という同じ名前を持つ寮が金沢大学にあるらしい。あちらの「北溟」寮という名前がどこに由来しているのか、私は知らない。旧制四高の寮といえば時習寮だろう? 
 また、高知大学には南溟寮がある。《2001年》

◆共通一次にとってかわったセンター試験すらすでに今年度から過去のものとなります。
◆なぜ新潟大は一期校で信州大は二期校であるのか。当時掲示板にも投稿があり新潟には旧制大学(旧制新潟医科大学)があったからではないかという意見でした。岡山や長崎(一期)のケースではあてはまりますが、熊本や金沢(二期)とかを考えると地域的配分ということも大きかったのかな、と思います。
◆東大駒場寮、山形大学寮、金沢大北溟寮はすでに廃寮となりました
◆2015年わが北溟寮もついに一人部屋メーター制食堂なし…つまり当時いっていた新々寮となりました。
◆恵迪寮の復元建築は《北海道開拓の村》にあります。ただ札幌農学校の、となってますので北大予科当時との違いはわかりません
◆松本深志高の校舎は健在。2003年には国の登録有形文化財に指定され、現役高校校舎としてナンバーワンともいわれています《2020/8/27》

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