第四十三夜 10.20事件 後編

事件のゆくえ

土曜日の昼過ぎ

さて。土曜日の昼過ぎ、とり残された寮生たちの体内にはアドレナリンが満ちあふれていた。そりゃそうだろう、これまで警察相手にもみ合うなどという経験がある者は極少数だったろうし、目の前で2人が逮捕されていったのである。興奮状態のまま学校にいき、学館前で集会を開くことになった。ハンドマイクを手に次々とアピール。だが土曜日の午後ということで学生の数は少なかった。

臨時寮生大会

 その夜には当然のごとく臨時の寮生大会が開催された。寮務委員会からの状況報告に続き、今後われわれはどんな対処をすべきかを話し合ったのだ。

 この時点で民青の諸氏は当然ながら「北溟寮のやり方は正しくなかった」という方針であったように思う。正式な家宅捜査令状を手にして・中核派の居室を捜索したのだから彼らにとって問題になるはずがない。むしろそれに抵抗したブンをはじめとする寮生の連中のほうに非がある、ということだろう。あのときはまだY氏がいただろうか。Y氏は民青の理論派代表で、ウータン氏によると「かみそりY」とかいわれていたそうな。このころにはしかしそれも過去形になりはじめていたと思う。ただし民青とて殺気だった寮生に表だって反対するのも得策ではなかったろう、「挑発にのるべきではない」とかいってお茶を濁していたかもしれない…が本当のことをいうと彼らの主張はよく覚えていない。

 本来なら他者には公開しない寮生大会であろうが、このときは例外的にオブザーバー参加を許した。その中で特にめだっていたのが一方の当事者である第4インターのカシワさんだった。カシワさんは学園町にある北鷹寮1階の住人で、当時、北鷹寮ただひとりの「過激派」だったのだ。
 カシワさんは演劇をかじっていたとかの噂で、小柄な体ながら迫力あるアジをぶった。開口一番『北溟寮の皆さんの本日の行動に、また、このように寮生大会をオープンにする姿勢に、学園町から連帯のあいさつを送ります!それにひきかえ学園町諸君は…』などとあおり万雷の拍手をもらっていた。
 話は全くそれるが北鷹寮1階にはもうひとり学園町路線から一歩引いて北溟寮に親しんでいた盛岡一高出身の男がいたのだが、こいつの名前を思い出せない。彼はいつだったか溟寮のコンパに参加して例の盛一の校歌 -<軍艦マーチのメロディ>-を朗々と歌ったのが懐かしい。(*注 この後掲示板への投稿あり。彼の名前はカキザキ氏と判明。)

 レンコン=協会派は、逮捕されたのが中核派であるにも関わらず、今回の警察の家宅捜査にあたり、警察権力の横暴さと大学当局のそれへの協力ぶりについて強く非難した。
 ただ私から見てこのときいちばん目立っていたのは4階のミウラさんだったと思う。ミウラさんは卒業を前にした文学科の4年生でそれまでは寮で全くめだたないおっさんだった。しかしこの寮生大会において訥々とした北海道弁(…だったと思うがどこかの東北弁だっかもしれない)で「どうして家宅捜索をするのが悪いことなのか」という質問からスタートしながらだんだん協会派に共感し・さらに過激な意見を述べるようになっていった。後の話になるが、ミウラさんは弘前署に勾留されている2人に差し入れにいった。チョコレートだったかお菓子の包み紙に細工をして激励文をつけたのだがあえなく警察に見つかり没収されたという逸話をもつ。

 私たち1階のおもだったメンツはもちろん、ブン支持・徹底的に戦うべし、だった。

 逮捕から48時間以内に検察に書類を送るだの、1日おいてその次の日から10日間拘留することができるだの、さらにもう10日間勾留延長があるだの、という知識はこの時、得たものである。また03-591-1301(ゴクイリイミオーイ)救援連絡センターとかね。

1.15事件

 この時の寮生大会で話題にのぼったのが1976年1月15日におきた1.15(イッテンイチゴウ)事件だった。冬の夜、北溟寮の門をはいった敷地内に2人組の男が乗った1台の車がとまっているのに気づいた寮生がいた。この車の中にいたのはゲイのカップルでもなんでもなく、2人の公安刑事、車は警察車両だったのである。
 たぶん中核派その他の学生運動家の動向をさぐろうとして張り込みをしていたのだろうが、敷地内に車を駐め・さらに寮生にばれてしまうとは「下手こいた~」(by小島よしお。いまはいいけど何年か先にはなんのことやらわからなくなっているだろうな、このギャグ。)だろう。寮生は車を取り囲み、詰問しようとしたが彼らは閉じこもったまま出てこようとはせず、無線でよびだされた武装警官が集団で寮の敷地内に殺到してきた、という事件であった。(マルヒの北溟寮への入寮は1978年4月だから、76年1月におきた 1・15 事件には遭遇していない。よってすべて 1.15 事件の話は伝聞である。)

 ただ、今回の10.20事件と以前の 1.15 事件はずいぶんに様相が違う。少なくとも 1.15 事件はまったく公安側に非がありこれは民青といえども告発・非難の対象にしただろうことは想像に難くない。日本共産党も公安にいわせると立派な危険団体で今でも監視対象であるという。また公明党が連立政権を担う与党である今はともかく、当時は創価学会とて公安のターゲットとなっていたろうから。

 警察が寮の動向を探るなんて、と思うでしょう?しかし確かに公安は寮生の動向を調べて続けていたのだ。わたしが卒寮した次の年84年、ある寮生が公安から金銭を受け取ってスパイ活動をしていたことが発覚した。彼の話によると、寮内で発行されたビラを渡したり、寮の情勢を話していたという。連綿とそのような工作は続けられていたのだそうである。汚い事をする連中だ。

弘前署デモ

 われわれ北溟寮生はすぐさま弘前署に対して抗議デモをかけることにした。さすがに次の日には無理だったとみえて抗議行動は22日に行われている。北溟寮から出発して・学校を経由・土手町から一番町をあがり弘前署まで。さらに弘前署での抗議活動のあとはお城で総括集会。なんのことはない観桜会の時と同じルートであった。弘前署に逮捕・拘留されていたのは溟寮ではミドリヌマさんとオーカワさんと、朋寮の例のSさんの3名であった。

 そのとき陸奥新報にのった記事である。2003年の「スノー・ヒロサキ・タイムスリップ・ジャーニー」の際に寮務委員会室でみつけたスクラップブックから撮影したもの。

 記事中にある①12日の事件、とはつまりビラ貼り事件のこと。この家宅捜索はその事件の捜査のため、という事になってはいたがもちろんそれはただの名目。10.21国際反戦デーを前にした予防検索だったのだろう。もしかするとこの日、ほかの中核派拠点でも同様のガサ入れがあったのかもしれない。

 80名の参加とある。在寮200名弱だったから半分近くが抗議行動に参加したのだ。しかしながら、わたしの記憶ではこの時、中核派や第4インターからの参加はなかった。『画像資料館 1979年度』に4枚ほど画像がおいてある。そこにも書いてあるが、弘前署の窓から次々とストロボが光り抗議をする寮生の姿をバシバシ写真に撮っていたのを思い出す。寮生側も対抗して負けじと彼らの写真を撮ったが、そんなものが必要なのは中核派の連中だけだったろう。

 ブンが弘前署の構内にはいって抗議文を手渡そうとしたが、写真のとおり警官が並びわれわれは署内にはいることはできなかった。そこで寮長のブンが抗議文を読み、さらに弘前署を周回してシュプレヒコールを繰り返した。
そのとき留置所にいたミドリヌマさんから「寮生の支援の声が聞こえてうれしかった」という話を後日聞いた。

結末

 結局3人は不起訴に終わり、23日の拘留期限を待たずに釈放されてきた。大変だったろうと思ったがオーカワさんはすました顔をしてすぐ寮に機関誌やらを売りにきた。話をしても涼しい顔をしていた。前年度に三里塚で管制塔占拠闘争に参加した彼にとってみればたいした事なかったんだ、と変な風に感心したものだ。

 お城のほとりにあった地方裁判所でこの裁判の傍聴というのを初めてした。10.20事件から1年ほど後だったような気がする。ビラ貼り事件はほとんど事件とはいえないような話でまったくの茶番というか警察のでっち上げだと感じたのはいうまでもない。

 そうそう中核派が預けにきたあの紙封筒のこと。半年ほどすっかり忘れていた。なにかの機会にトヨタマさんに返却したのだが、『あ、そうだっけ』と軽くいわれてマルヒはずっこけた。まあ、こちらとて半年の間、預けられたことすら忘れていたのだ。
…中には何がはいっていたのやら、もちろん今でもわからない。

(2008, MAY 19)

◆このとき逮捕されたのはミドリヌマさん、オーカワさん、Sさんの三名と書いてありますがSさんは逮捕されなかったのかもしれません。
◆10.20事件を契機に北溟寮自治会は民青主導下から離れ急進化、勃発した寮食堂問題においては学園町路線と鋭く対立して運動を展開することになる。
◆画像資料館《1979年度》に各写真ごとのやや詳しい説明があります。

《2021/9/23》

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