第三夜 食事のこと

われらが華やかに麗しかりし寮食

まずは腹ごしらえから

夕方になると飯の時間がくる。『んじゃ、飯喰いにいこか…』
気の抜けた声で同室のウータン氏から声がかかる。渡された食券と称するカードには、縦に1日から31日までの日付、横に朝・昼・晩のチェック欄があった。食堂では、この食券を食券当番がチェックして盗食のないようにするしくみだという。
 もっとも既に昼食はなくなっていたから、寮で食べるいわゆる寮食というのは、朝と晩だけということになる。朝は7時30分頃から8時30分くらいまで、夜は17時30分くらいから18時30分くらいまでだったろうか。

 食堂の一番前に、横にテーブルが並べられ、直径1メートルくらいのご飯が入った大きなお釜、みそ汁がはいったバケツが置かれる。さらに炊事場との間の棚におかずのお皿という感じである。
食堂で使われていた食器はクリーム色のプラスチック製、病院とかでよくみかけるやつ。それもそのはずで北溟寮の食器は医学部付属病院からのお下がりで、ということは正真正銘の《病院とかでよくみかけるやつ》なのだ。カレーライスのお皿ときたら、T字形に区分けがある大皿を使っているから食べにくくてしょうがなく、スプーンが備品としてない関係上、カレーの時は自分でスプーンを持っていくか、箸で食べるかだった。私は、大学の生協から(勝手に)もらってくるスプーンを愛用することにした。

 

その頃のカレー皿。ネットで画像を探すとこれが一番近い。これのクリーム色。
いまは老人介護用品ショップで売ってる。…ということはこの後またお世話になるということか。とほほ。

メニューあれこれ

 寮食で年度はじめによくでるメニューは豚カツだったりしたが、この豚カツというメニュー、年に何回かしかでなかった。それでも紙みたいに薄かったのは間違いない。
 初夏の頃、ふきのみそ汁に、ふきの佃煮、ふきご飯というメニューがあったような記憶がある。さすがにこの時は辟易した。ポテトサラダと缶詰のさんまの蒲焼きが夕食のメイン、という日もあったし、なんの魚か名前もわからない魚の焼いたのもよくでた。
 びっくりしたのはクリームシチューにジャガイモではなくサツマイモがはいっていて、いつもねっとり甘かったことだ。後で判明したのだが、炊フさんとの懇談会で、クリームシチューにはサツマイモをいれて欲しいといった男-通称ホモツグさんという-がいたらしい。ホモツグ家では昔からクリームシチューにはサツマイモをいれていたと、かの男は主張したそうな。ホモツグ家の習慣のせいで、どれだけの寮生が気持ち悪い思いをしたのか、はかりしれない。
 朝ご飯にはそれでも1年生の頃はタマネギを炒めたものとかでていたが、何年かすると炊事人の削減もあって、基本的にごはんとみそ汁とふりかけだけになった。つまり調理しなくていいもの、である。卵と納豆はごちそうだった。和歌山出身のウータン氏は苦労したようだが

一食100円也

 その頃弘前に存在した賄いつき下宿に比べても、寮の飯は「情けない内容」である、と当時の私たちは認識していた。無理はない。驚くなかれ、松田聖子ちゃんが「♪えくぼーのーひみつっあげたいなっ」とか、うたっていたご時世に、北溟寮の食費ときたら一食100円程度だったからである。生協の昼定食(コープ定食)でさえ280円なのに。

 しかも、にもかかわらず食費を滞納する輩も多かったように思う。

 そのなかで やりくりしてちゃんと一日二度のご飯をつくってくださった炊フさんおよび寮務委員会炊事部には、今から思うと頭が上がらない。むかし海軍で飯を炊いていたというウワサの小野さん、竹内さんはじめ何人かの炊フさんの事が想い出される。

寮食堂

旧制高校の寮食堂、70年代の寮食堂そして炊公化運動

 旧制高校がらみの本で「旧制高校飯炊き青春譜」という本がある。書いてある内容に文句をつけ気はさらさらないんだが、ひとつだけ気になったことがある。それは、旧制姫路高出身の著者が昔の炊夫さんを訪ねて神戸大学の寮を訪ねるくだりだ。寮の壁にはられた『炊フ公務員化実現!』てなポスターを見て、この著者は、炊夫の夫ぐらい漢字で書け、などと憤慨している。炊「フ」と、カタカナで書くのは炊「夫」さんつまり男性と、炊「婦」さんつまり女性がいたからだ。ATOKでもMS-IMEでも、今、キーボードから「すいふ」とうって漢字に変換されるのは「水夫」だけだから、すでに炊夫・炊婦ともに死語になっているとは思われるが。
 旧制高校では寮は自治が建前。寮の食堂も寮生によって運営-すなわち炊事人を雇って運営されていたようだ。かの旧制弘前高校の卒業生鈴木某(弟のほう)も、戦後の混乱期に自分がいかに寮務委員として奮闘し寮生の食料を確保したか、という文章を何カ所かに書いている。
 しかし昭和の御代も50年すぎた時代に暮らした私らとしては、寮生が雇用主体となって炊事人さんにちゃんとした仕事を保証できるか、という事を考えなくちゃいけなかった。炊事人さんにちゃんとした身分保障を。炊事人さんを公務員に、という運動《水公化運動という》が民青を中心におこなわれていた理由のひとつでもある。

その時の私は

 ご飯・みそ汁は基本的に食べ放題だったからおなかいっぱいにはなれた。
 当時は『体は満たされても心は満たされない食事』などといいつのっていたものだが、今から考えると、仲間と一緒に食べる寮食は、ほんとうは「心も体も満たされる食事」であったと思う。
 いつもの食事。食堂にあふれるさざめき。笑い声。寮の友人連中と一緒に、たわいないことを話しながら飯を食う、このことがどれだけ幸福な瞬間なのか、もちろんその時の私は半分もわかっていなかった。《2001》

◆食事は何日か前に申し出れば一日単位で停止することでできた。これを《停食》と呼んでいた。
◆鈴木某 などと悪意を持って書いている節がありますが、これは元NHKアナウンサーの鈴木健二氏のことである。兄は映画監督の鈴木清順氏でこちらも元北溟寮生。なぜ悪意をもっていたか?寮には旧制弘高由来の大太鼓があったが、わたしの在寮中にその太鼓の皮に穴が開いた。スワッ交換、となったがこれがなかなか費用がかかる。そこでその当時そこそこの有名人で北溟寮にいたことをよく文章などにしていた鈴木健二氏をはじめOBにカンパの依頼をだしたのだった。しかし鈴木氏からは『弘前大学北溟寮は官立弘前高等学校北溟寮とは何ら関係なし』とにべもなく断られた。そのせいです。
◆喫食率すなわち寮生の何%が寮で食事をしていたのか。マルヒの朝食の喫食率は極端に悪かった。なんせ朝は起きないからである。時たま食べるとしたら徹マン明けとかなんである。文中の水フさん・竹内さんはそんな寮生たちに対してマイクを手に寮内放送をかけた『がくせいのみなさん、あさのぉ、ごはんのぉ じかんですよ』(これだけ書くと津軽弁っぽくないけど発音は津軽弁そのものなんです)
◆松田聖子はまだ現役で、ある意味、スーパースターである。たいしたものである。
《2020/8/31》

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