第三十夜 帰省

弘前への往還

いつもうるさい北溟寮が静まりかえるのが夏・冬・春の長期休暇である。
おもしろいものでこの3つの休暇、それぞれ《休みの雰囲気》が違っていた気がする。

夏休み

 夏休みは寮祭の喧噪の後にやってくる。4月に入寮した新1年生にとってはあっという間の4ヶ月であったろう。やっと緊張が解け、久しぶりに親元に帰るうれしさが寮内にもあふれているようだ。上級生は夏の休みは帰省せずどこかへ旅行にでることも多いし、またバイトやねぷた見物のため弘前に居残ること多かったように思う。それでも、ぽつぽつと寮内の人気が消えていき、寮食がとまり、風呂がとまり……。
 真夏の暑い日中にそんな寮に戻ってくると、寮務委員会室の前の窓から中庭がやけに白っぽく見えたことを覚えている。そこから何歩か歩くだけでもう談話室の前だが、寮の廊下は真っ白に光る真夏の屋外とは対照的に真っ暗で、寒々と静まりかえっていた。その頃には帰省のためすでに3分の2以上の部屋が空になっている。

右側の窓から中庭の光。ちょうど正面に談話室の窓ガラスの四角から光。つきあたりから左右に伸びる廊下は暗い。2013年撮影

 夜になって窓をあけると、もう本番まで何日もなく練習に余念がないのだろう、ねぷたの笛の音がどこからか聞こえてくる。

冬休み

 冬休みは夏と違い、一気に人が減る。風呂・飯だけではない、スチーム暖房まで落とされてしまう冬の休みは厳しさの度合いが違う。だから、この時期に寮に居残り越冬するのは、たいていの場合、年明けすぐに追試がある医学部生か、あとは新聞配達のバイト組くらいに限られる。一年中でもっとも寮の人口が減る時期である。
 マルヒも一度ぐらいは越冬したかったが結局実現したことはなかった。松本の実家のこたつにあたりながら「ゆく年くる年」を見ていると、そんな時に限って『……ここ、青森県弘前市の長勝寺は例年になく多い雪で……』とか中継がある。そのたびに、ああ来年は寮で年を越したい、とか思った。
 話によると、大晦日の夜は残った少ない寮生がひとつ、ふたつの部屋に集まり鍋をするという。

春休み

 春休みは慌ただしくすぎていく。卒寮。受泊。新歓。いつもの休みより大勢の人が寮に居残っている。

特急『白鳥』+青函連絡船

 帰省というとなぜか思い出すのが特急『白鳥』だ。いや、自分が使ったわけではない。この列車、北溟寮の主力部隊である北海道出身者が帰省時に使う率ナンバーワンだったからだ。
 多分、夜の10時くらいの弘前発だったと思う。弘前-青森間に特急を使うとは贅沢な、と感じたが実は北海道乗継割引なる制度があって、特急から乗り継ぐと(すなわち白鳥から乗り継ぐと)北海道内の特急料金が半額になるのだ。
 青森から青函連絡船に乗り明朝、函館に着く。すると函館駅には2台のディーゼル特急が待っていて片方は室蘭本線に、片方は函館本線に、という寸法だ。(たぶんどちらかが『ライラック』だと思う)

  青函連絡船は、マルヒが卒寮してから5年後、1988年3月に姿を消した。
 大阪-青森間の昼間長距離特急であった『白鳥』も2000年3月に長い歴史の幕をおろした。

急行『しらゆき』

 『白鳥』とは違ってこちらは知らない人も多いと思うが、青森-金沢間を日に一往復していた急行である。マルヒが弘前から松本に列車で帰省するときはたいていこれに乗った。
 上りは弘前駅を朝7時ぐらいに出発するダイヤが組まれていた。朝の7時に弘前駅であるから寮は6時過ぎにでないといけない。通常の生活パターンからすると超早起きとなり、しかも二日酔い状態のことが多かったと記憶する。
 乗りこんだ早々に寝てしまい、秋田あたりでやっと目が覚める。秋高出身のユウジに教えてもらった水道山を眺めながら、やっと秋田か、とひとつため息。酒田・鶴岡を経て新潟県にはいる頃には午後になっている。新潟で進行方向が変わりいままでの後方が前方になる。
 直江津で信越線に。長野行きの普通列車に乗換え長野駅に着く頃にはもう真っ暗。目的地の松本までは、まだ篠ノ井線にのらなくちゃいけなかった。ようやく実家にたどりつくのは夜の7時過ぎ。ながいながい帰省の旅である。

急行『津軽』

 ところが、松本から弘前に戻るときには日本海側を北上するルートは乗り継ぎが悪いため太平洋岸を戻るのを常とした。この場合はいったん『あずさ』で東京にでて『津軽』に乗ることになる。

鉄オタだった3階のヤスダが調べてくれた松本→弘前の乗継だと思われる。松本を夜中にでて長野、直江津を経由して日本海側を北上、弘前到着は翌日の11時35分。なぜか封筒の裏側に記してあり、左側にある『…車を貸せ!』は無関係。

 急行『津軽』……なんどこの列車に乗ったことだろう。帰省の時もさることながら5年生時の就職活動の際、幾度か東京と往復したのもこの『津軽』だった。(または青森発東北線経由の『八甲田』)
 もともと上野という場所には全く縁の無かったマルヒである。『ふるさとの訛りなつかし……』の歌のとおり、上野駅の長距離線の待合室・ホームは北の方言が充満していた。時季によっては『津軽』の入線を待つホームに人があふれていたこともあった。

 夜の真ん中を走るガラガラの車両にひとりだけで文庫本を読み続けたこともあった。
 これは上りに乗ったときのことだが、家出少年が鉄道公安官につかまって降ろされるところも目撃した。
 上野の鈴本演芸場で落語を聞いたり、アメ横をぶらついたりすることも覚えた。

 北にむかってひた走る『津軽』。真っ暗な闇だった窓の外が、ふと気がつくと横手あたりか、もう白一色になっている。長い停車時間がある秋田駅のホームにあった洗面台。大館駅で比内鶏弁当を買えば弘前はもう近い。

 同じ経路を走る寝台特急『あけぼの』という列車もあったが、こちらは入試の時もふくめて2回しか乗ったことがない。

車での帰省・冬その一

 バイクや車で帰省したことも何度もある。そのなかで今回は冬の話題。(夏のバイクでの帰省の話は、また別稿で。)

 80年の12月のことだった。たまたまこの年、コツチダ(富山・高岡)が車を持っていてその車で帰省しようという話になった。話にのったのはムトー(岐阜・洞戸村)、アサオさん(新潟・上越)、マルヒ(信州・松本)で、合計4名が車に乗りこんだ。
 クリスマスも過ぎた日、弘前をよなかに出発した我々はつるつるに凍結した国道をひたすら南下していった。途中、山形で深夜の海辺の国道を通過。強風のため道路が波の花でいっぱい、という珍光景を見る。
 後部座席のアサオさん(出発時酔っぱらい)とムトーは寝てしまい、運転手コツチダとマルヒだけで生き残りをはかる。このぼろ車はワイパーがずたぼろで、吹雪のなか対向車の姿もよく見えず、生きたここちがしなかった。眠気に耐えつつ、前部座席のふたりは、
 『前方、トラック確認っ、距離500』
 『トラック確認っ』
などと復唱しつつ、車を運転していったのだ。
 しかも途中で国道に雪がない地域がありそこでチェーンを切らしてしまう、という不始末。新潟県にはいってふたたび雪が深くなり耐えきれずにホームセンターに立ち寄ってチェーンを買った。
 ようやくたどりついた上越市のアサオさん宅に1泊。
 ここでアサオさん・マルヒはこの車におさらばしたが、ムトーはこの先、コツチダの家にたどりついたものの、雪で列車が不通。何日か滞在したという。

 この1980年12月から84年1月にかけての豪雪を56豪雪という(1981年は昭和56年なのだ)。豪雪というと昭和38年の38豪雪というのが有名だが、実はこの56豪雪は38豪雪を上回る積雪量を各地で記録している。我々はそのなかを強行突破したわけだ

車での帰省・冬その二

東北縦貫道が盛岡の北の西根インターまでしか延びていなかった頃だったか。イタモトのサニーでふたり、冬休み明け、東京から弘前に戻ってきたことがある。冬の弘前では、当時はまだスノー&スパイクが許されていた。イタモトサニーは東京にいるときはノーマルタイヤ、後部のトランクにスノー&スパイクを積んでいた。
 仙台をすぎたあたりであろうか。我慢に我慢を重ねていたが、高速道路にさえ雪がめだちはじめ、猛烈な地吹雪模様の中でタイヤを付け替えたのを思い出す。

(14 Jan. 2002)

◆1階は北海道以外の遠隔地からくる学生をとるのが好きだった。東京など関東圏以外にも名古屋、和歌山、長崎などがいた。奈良県十津川村出身のカツヤマの帰省話にはバスが登場した。
◆当時でも飛行機を使って帰省する寮生もいたがあくまで少数派だったと思う。
◆東北新幹線が大宮-盛岡間で暫定開業したのは1982年のこと。文中にあるように青函連絡船が廃止されたのは1988年のこと。昭和は遠くなりにけり。

《2021/5/5》

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