第三十三夜 序章のなぞ
だれがはじめた?
歌い継がれてきた歌
寮歌『都も遠し』の序章について書いてみたいと思う。
北溟寮の寮歌である『都も遠し』は、戦前の弘前高時代から新制弘前大学に変わり、さらに緑が丘に移って30年を経た今に至るまで、幾世代もの間歌い継がれてきた大切な歌である。
北溟寮の生活の節目節目に必ず歌われ、また、私の年齢では最近さすがに機会が少なくなったが、元寮生の結婚式というとこの寮歌がとびだしたものである(おまえは2回も歌ってもらったろう、というチャチャは却下)。もう何年も前になるがタカナシの結婚式披露宴はかの銀座『マキシム・ド・パリ』でおこなわれ、われわれはその場でもこの『寮歌』を披露した。『マキシム・ド・パリ』で歌われた寮歌というのも数少ないに違いない。
序章
この『都も遠し』が歌われる前には、序章として必ず唱えられる一節がある。
寮内の壁など所々に散見し、また現・北溟寮公式HPの冒頭に掲げられているこの序章を、確認のため再掲すると以下になる。
北溟寮寮歌『都も遠し』 序章
雪を頂く秀峰岩木を背に
負うたるや古城の桜 悠々たるや岩木川の調べ
絢爛たる我らが青春の饗宴は無下に過ぎ易し
然れども見ずや君
北溟に輝く幸福星に影はなく
雪とまがう鷹陵の名花 永久に萎まざらんことを
寥々と未来の運命を嘆かんよりは
若き恩寵の聖火を焚きて 歓楽の美酒を酌み交わし
いざいざ謳歌せん記念祭
入寮してはじめてこの『序章』+『都も遠し』を聞いたわたしは、戦前の弘前高等学校時代からこのスタイルが受け継がれている、と何となく最近まで考えていた。弘前高を代表する寮歌である『都も遠し』自体は、大正11年 脇本忠信・作詞 菅谷知巳・作曲とクレジットされる。
しかし、戦前・戦後に編集された寮歌集などを見ても、『序章』は影も形もない。また、以前話題にした官立弘前高等学校同窓会作成のビデオ『弘高青春物語』(第十九夜『寮歌』の項参照)においても『都も遠し』のメロディは流れているが、序章はでてこない。
七高造士館
わたしが78年に入寮して『序章』+『都も遠し』を聞いた際、何故なんの違和感もなしに戦前からの伝統かな、と思ったかというと、いくつかの旧制高校でこのパターンが存在するからである。
なかでも一番有名なのは鹿児島にあった第七高等学校造士館の『北辰斜めに』。これには『巻頭言』と称する必殺の前口上がついていた。
流星落ちて住む処、橄欖(かんらん)の実の熟るる郷(さと)
あくがれの南(みんなみ)の国に
つどひにし三年(みとせ)の夢短しと 結びも終へぬこの幸を、
或いは饗宴(うたげ)の庭に 或いは星夜(せいや)の窓の下に、
若い高らふ感情の旋律をもて 思ひのままに歌い給へ、
歌は悲しき時の母ともなり 嬉しき時の友ともなれば
いざや歌わんかな北辰斜めに いざや舞わんかな北辰斜めに
…アイン、ツバイ、ドライ!……
『北辰斜めに』は大正3年にできた寮歌であるが、この巻頭言は昭和の7-8年頃からの習慣であるらしい。またある本によると、昭和11年秋に鹿児島にあるラジオ局の放送で『北辰斜めに』を歌ったさいにこの巻頭言が唱えられたという。
三高
一方、京都の三高では特定の寮歌につかない『序歌』というものが存在した。
ああ永劫の時の歩みに今くれゆくか我等の青春
若き生命の影にまたたく不断の光と不滅の追憶(おもひで)
夢ひき結ぶ学びの庭に悲しき思ひを胸にひめつつ心静かに友よ歌はん
また同じく三高の『行春哀歌』には以下の前口上がつく。
我等が華やかに美はしかりし青春の饗宴は
かくも静かにまたかくもあわただしげに尽きなんとす
友よ更に新しき盃を求めながら
我等と共にうすれゆく日の影にこの哀歌を声ひくく誦せん
北大予科
さて、ここで話は北海道にとぶ。
北大予科恵迪寮の寮歌である『都ぞ弥生』は、あまり寮歌になじみのない人でも聞いたことがあるかもしれない。一高『嗚呼玉杯に』 三高『紅萌ゆる』とあわせて日本三大寮歌ののひとつ、とする人もいる。
平成のいま、『都ぞ弥生』は、前口上がつけられて歌われている。
しかし『都ぞ弥生』にはもともと前口上はなかった。なのに戦後のある時期から、全く関係のなかった昭和11年作成の寮歌『嗚呼茫々の』の「楡陵謳春賦」なる前口上がドッキングするようになったという。
この経過は当の北大・恵迪寮のOB組織でも明らかではないらしい。ウェブ上の情報によると『嗚呼茫々の』の作詞者は存命で、自分のつくった「楡陵謳春賦」が『都ぞ弥生』の前口上として使われていることを嫌悪しているとのこと。OBの間でも賛否両論あると思われる。
北溟寮生にとって問題はその「楡陵謳春賦」の内容である。
吾等が三年を契る絢爛のその饗宴はげに過ぎ易し。
然れども見ずや窮北に瞬く星斗永久に曇りなく、
雲とまがふ万朶の桜花久遠に萎えざるを。
友どちよ、徒らに明日の運命を歎かんよりは 楡林に篝火を焚きて
去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌はん。
ね、『都も遠し』の序章とそっくりでしょう?
序章のなぞ
旧制高校の寮歌というものは、年代の相違はあるとはいえ狭い領域で影響しあい、ある程度類似したタームを使い回していることも多いのだが、これはその範疇を越えている。
弘前高等学校側にその資料が見つけられない以上、現行『都も遠し』の序章は昭和40年代くらいに北大から輸入された文化である、というのが妥当な推論ではないか、と思われる。
実は同じような事が東北大・明善寮でもある。明善寮は二高以来の伝統を誇る寮で、『山紫に』は二高を代表する寮歌なのだが、やはり戦後いつからか前口上つきで歌われるようになっている。その前口上とは前掲『北辰斜めに』から転訛したものである。
誰がいつ?
誰かが(多分)軽い気持ちから面白半分にはじめて、何十年かたつとそれはもうだれにも手出しができないような伝統と思われている…。
わたしは声高に「これはニセものだ」「パクッたものだから格好悪い」とする気持ちはない。コピーからはじまったものでも、すでにこれだけの年数を経て、オリジナルになってしまったような感があるからだ。
でも疑問は残る。
だれが、いつ、いったいどんな経緯で、われらが北溟寮に『序章』を持ちこんだのだろう。いまは全く歴史の闇のなかに埋もれているが、いつか明かされる日があるのだろうか……。
北溟寮のOBをはじめどなたでも、この辺りのことをご存じの方がいらっしゃったら、ぜひ私までご連絡ください。
(March 17 2002)
◆初稿を公表してから20年近くになりますが「序章のなぞ」についての情報は入手できていません。これからも情報お待ちしています。
◆各地の寮、大学で歌われている寮歌などへの巻頭言・前口上・序歌・序章…について、有名寮歌の使い回しが多々あることはいろいろなウェブサイトで確認できます。
◆都も通し・序章の言葉遣いについて昔から感じていたことをここで。
①旧かなではない。
負うたるや(負ふたるや) まがう(まがふ)
②無下に過ぎ易し
北大「楡陵謳春賦」では 「げに」 つまり、まことにって意味でこっちの方が意味がとおる。まあ 「無下に」って そっけなくとか冷淡にって意味で、シニカルな表現でかっこいいかもしれないけど。「我らの青春の饗宴はそっけなく過ぎやすい」…やっぱり違うような。
③永久に萎まざらん
しぼまざらん というのは文法的にどうなの?
④嘆かんよりは
これだと否定されるような気がします。「楡陵謳春賦」でも同じように使われてますが。ここは「嘆かふよりは」か。
ということで 都も遠し・序章 マルヒ版 を
雪を頂く秀峰岩木を背に
負ふたるや古城の桜 悠々たるや岩木川の調べ
絢爛たる我らが青春の饗宴(きやうえん)はげに過ぎ易し
然れども見ずや君
北溟に輝く幸福星(かうふくせい)に影はなく
雪とまがふ鷹陵の名花 永久に萎まざることを
寥々と未来の運命を嘆かふよりは
若き恩寵の聖火を焚きて 歓楽の美酒(うまざけ)を酌み交わし
いざいざ謳歌せん記念祭
《2021/5/22》