第三十七夜 寮食堂をめぐって・後編
後退戦
三者自治
炊フ公務員化運動については代々木(民青)も強く反応した。彼らが唱える三者自治論からいえば教授会は学生自治会とともにこうした文部省からの干渉に戦ってくれるはずだからである。
お願いすれば、だが。 「民主的」教官が多ければ、だが。 まあ、そんなことは決してなかったのであるが。
三者自治とは『教授会』『教職員組合』『学生自治会』の三者により大学を民主的に自治的に運営していくという理論である。
79年夏に発覚したこの事態に対し、北溟寮自治会もいくどの階生大会・寮生大会を経て大学側との対決姿勢を強めていく。寮生側と大学側との交渉の場は3寮の寮務委員会が大学側の組織である学寮委員会あるいは学長と会見するという形になっていた。学長は会計検査院からの指摘に対して、ふたつ返事で(?)是正すると回答していたらしく、その回答内容とともなってそこが問題視されてた。
階報から…
1979・11・29という日付をもつ一階階報「私のアイランド」から当時の記事を引用する。なお、この階報はなんのことはないマルヒが作成して発行していたものである。
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★11.28寮生大会経過
11月28日の寮生大会は「30日学長会談時の行動提起」という問題で話しあわれた。1階では前日(11/27)行われた階生大会で討論したものの”カンヅメ”の有効性(メリット・デメリット)をめぐりまとまらず、個人個人意見をもち寮生大会に臨むということになった。
11/28寮務委のだした議案書は11/30学長会談において評議会交渉をもつという確約をとることがぜひとも必要という面から『平行線をたどり決裂した場合可能なかぎりねばり、学長が獲得目標どおりの回答を行うよう圧力をかけるために参加者全員で学長を詰める。つまりは軟禁をも辞さない』という強い意思表示をもつ文面をもっていた。この「軟禁をも辞さない」といったことを今後の道すじをも含めて討論したのであるが、おもな論点は次のとおりである。
<賛成意見>
・我々は今ここで一歩もひけない。ここで学長に”評議会”に逃げられてしまったらどうするすべもない。
・ボス交では寮生の声を反映できない。
・学長としての責任のがれをゆるさずあくまで学長と話しあう。
・直接行動でぶつかっていく。軟禁は一番有効な方法ではないが示威行動としてやる。
etc..
<反対意見>
・「暴力的」にやるのはともかくよくない。
・民主的な運動として全学内にひろげるのが先決。
・問題解決の別の方法として、評議員オルグをおこなって学長・学生部長を孤立させ学長会見(12/3)でつめる。
・教職員を敵にするのはよくなく、彼等をまきこんでいかねばならぬ。
etc..
討論の後、他二寮とのかかわりあい、又、重要案件かどうか(2/3可決か1/2可決か)という点で議事運営のまずさもあり(2時という深夜で頭のはたらきがにぶくなっていたりして)話し合いが混乱した。
結局、文面は『…学長が獲得目標どおりの回答を行わなかった場合は理由を正し疑問がある場合は納得するまで学長と話しあう。その場合は軟禁をも辞さないという覚悟で臨んでいく』と修正された。又、可決した場合、北溟寮独自でもやっていく。重要案件として2/3をもって可決ということで採決(2時45分)
[参加]143[賛成]83[反対]24[保留]32で可決保留となった。
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79年後期【*注1】。この時の寮長はブンからひきついだコツチダか。すると、緊張のあまりいっぱいひっかけていったという、コツチダのかのエピソードは、この時だっけか?しかし、深夜3時近くまで続く寮生大会、煙草の煙と倦怠感をいまでも思い出す。
ふたたび階報から
結局この時の学長会談はどうなったか。1979・12・6付けの「私のアイランド」からもう一度引用しよう。しかし根性をいれて発行してるね。ガリ版印刷だから大変なのに。
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■11・30学長会談および支援集会はいかにおこなわれたか?
去る11月30日、学長会談とそれに平行して集会がもたれた。8時から14時にわたる長時間の集会であった。11・293寮合同寮生集会での圧倒的拍手はあったが、参加者は、朝集会に200人程度集まった以外は少なかった。(11時頃 メイ寮生40人、朋寮生10人、オウ寮生20人)多少の討論はあったものの途中からテープで会談の中身を聞くだけでシュプレヒコールをくりかえしやったぐらいであった。会談の内容については(1)学長の独断の責任追求(ママ)には「やるべきではなかったが、しょうがなかった」(2)評議会交渉要求には「一応評議会にかけてみましょう」との予想された答しか返ってこなかった。成果としては”後日、継続して学長会談がもたれるであろう”というものしか得られず、結局、我々には冷えきった体だけが残った。
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うう、竜頭蛇尾。
学長が学内の了承なしに独断で会計検査院に返答してしまった。それを正すためにも評議会(各学部より教授が評議員として選ばれている)と団交して、返答撤回を目指す、という道筋で考えていたようですね。
【さらに階報から…】
ついで12月11日に評議会が開かれ、会場となる大学本部での終日集会ということになったようだ。1979・12・13付けの「私のアイランド」。
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◇12・11終日集会総括◇
一票という差ですわりこみという寮務委員会提起がとおったのであるが、参加人数は少なかった。理由としては我々がロビーに座り込んでも何等実質的効果をあげてきていないこと、運動の長期化による疲弊などが考えられる。また、座りこんでいる間に討論していなくて少々だらけ気味であった。我々は今、運動のみちすじを見失って混乱しているのではないだろうか。しかし、ここでくじけたら当局の思うつぼである。学長会見、評議会に向けて心は静かに燃え続かせよ。
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このあたりで藁半紙にガリ版印刷された「私のアイランド」は途絶えている。もう20年も昔のことで細かい記録は私の手元にはない。
本部すわりこみ・冬の陣
もっと叙情的な記憶を語ってもらう。80年入寮組が残した卒業生文集にムトーが残した文章である。タイトルは『Jhon Lennon』。。
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1980年の12月8日、僕達は大学本部で座り込みをしていた。三Fの会議室で評議会が行われていた。一年生ながら寮務委員だった僕は、その場にいるのが息苦しくて外にでた。大学中の活動家という活動家が集まっていて、日頃仲の悪い同士も隣りあって座っているような感じだった。僕は何か甘いものと、暖かい飲み物が欲しかった。生協へ行ってビスケットと牛乳を買ってこようと思い外にでた。
生協購買部のドアを開けてレジのそばをすり抜けていくと、レジにいた女の人が「ジョン・レノンが死んだよ」って言ってるのが聞こえた。一瞬「ジョン・レノンって誰だっけ」って思ったとたんに「エーッいいかげんなこと言うなよな」って気持ちがわいてきて、僕は変になった。レジの女の人はもう一人の女の人にまだ話し続けていて「さっきラジオで言ってた」なんていってた。
変になったままの僕はマザービスケットと牛乳と、それから書籍部では12月下旬号のキネマ旬報を買って本部に戻った。キネマ旬報の12月下旬号は創刊800号記念号で、歴代映画のベストワンとして「天井桟敷の人々」が選ばれていた。隣に座っていた先輩に「キネ旬の人気投票の結果知ってますか」と聞くとあるセクトの活動家だったその人は「『天井桟敷の人々』だろ。まあ当然だな」といった。「ジョン・レノンが死んだって知ってますか」と聞くと「いいかげんなこと言うな」と怒られてしまった。
やがて評議会が終わると同時に僕等はピケットを組んで評議員を会議室に閉じこめてしまい、大混乱になって、ヘトヘトにで夜遅く寮に帰った。寮生集会と寮務委員会があって、やっと自室に帰ると同室の先輩が「ジョン・レノンが殺された」といった。「死んだ」のではなく「殺された」のだと教えてくれた。僕はまた変になった。どう変になったかを少し説明すれば、ジョン・レノンが殺されても別に何とも思わない自分と、何かを思うべきだという自分が僕の中で甘酸っぱく斗っていたのだ。
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いいですねえ。書いた本人はいま顔を赤らめるかもしれないが。
時代をあらわすためにムトーが意図的にしたのか、或いはマルヒの記憶が違っているのか、わからないが、学内の活動家という活動家が集まってきたのは、その次の年、81年の夏におこなわれた本部泊まり込みだと思う。
本部すわりこみ・夏の陣
そのときは次の日予定された評議会をターゲットにして、前日の夕方から本部玄関から2階・3階へと続く階段および3階会議室の前で座り込み・そのまま泊まり込みに突入したのだ。蒸し暑い夜だった。寮生はいったんバラバラに寮に戻り、メシを食ってまた学校に戻ってきた。
もともと評議会会場になる3階会議室のドアには鍵がかかっていたのだが、いつの間にか開いて、寮生は会議室のなかで三々五々寝ることになった。これはホモツグがドアの上部にあった窓から忍び込んで内側からドアの鍵を開いた、というのが定説になっている。
学長の座る椅子だけはすこしだけ背もたれが大きく、他の平評議員の椅子とは違っている。代わる代わるその椅子にすわってはふんぞり返った。
やがて三階から屋上にいたるドアも開かれる。なんのためか知らないが屋上にあった小さな物置からは日本酒が数本見つかり、みんなで呑んじまえ、ということになった。
この時だ。学内の活動家という活動家がきたのは。北溟寮の寮生だった中核派はもちろん、寮によく来ていた第4インターからもフルメンバー。果ては知っている限りで学内にひとりだけしかいなかった解放派のおっさんまで顔をみせていた。
寮生連中は飲酒気分のやつもいて、すでに緊張の糸切れ、深夜にはのんべんだらりんとなっていた。
医学部に在籍してた第4インターのオガサカさんが、半分真剣な顔をして「マルヒくん、警察権力が現れるかもしれない。警戒が必要だぜ」といってきた。いつもはそんな言い方をする人じゃなかったのでよく覚えている。中核といえば屋上でいい調子でワルシャワ労働歌を口笛で吹いてるし。バリ封鎖は遠い昔、セクトの連中も学校でこんなことをやるのは多分初めてで、きっと楽しく興奮していたんだろう。窓から北溟寮の旗とか垂らしたりしてね。
翌朝、学園町の寮の連中や、職員が学校に来る頃には「溟寮生、本部占拠か」とかいわれたとか。
その時点になると在府町の医学部の会議室で評議会か、という噂がながれ、マルヒ始めバイク組がそこに走った。結果的にはこの日評議会はおこなわれなかった。
負け戦
結局、負担区分は貫徹され公務員炊フさんの欠員補充はなかった。日曜日には寮食がでなくなり、ウィークディの朝ごはんのおかずはふりかけ・卵など調理の必要の無いものに変わった。「負け戦」である。
しかし北溟寮はまだ緑が丘の地に残っている。食堂とともに。
完全個室制・集会室なし・食堂なしのいわゆる新々寮と北溟寮が化すとき、北溟寮もまた、ひとつの時代を終えるのだと思う。
それがいつの日かはわからないが。
(Dec 29, 2002)
【追記 Feb 1, 2003 この項、事実誤認があるようなので全面改稿予定】
◆寮食堂をめぐる事々について2002年年末に記事を公開しました。すると、岐阜のムトーから電話があって『会見の時期とか違うんじゃないですかね』と指摘があり記憶をつきあわせるもはっきりしません。ええいままよ弘前に行って確認すっか、となり、それが二人で書いた『2003年冬弘前紀行』となります。
◆追記に『Feb 1, 2003 この項、事実誤認があるようなので全面改稿予定』とありますが、この文章に手をつけることはしません。この時の前後関係などについては、《2003年冬弘前紀行 武藤編③》に詳述されており、おおむね、あれが正しい経緯です。
◆【*注1】79年後期はまだブンが寮長、コツチダが寮長をしたのは80年前期。そのあと、ヤマオカ、シバハシと続く。北溟寮の前期は6月~11月 後期は12月~5月なんです。
79年前期(79年6月~79年11月)・ブン
79年後期(79年12月~80年5月)・ブン(再選)
80年前期(80年6月~11月)・コツチダ
80年後期(80年11月~81年5月)・ヤマオカ
81年前期(81年6月~11月)・シバハシ
なので寮大での『学長軟禁を辞さず』は同年の10.20事件で過激化したブンの寮務委員会が提出した議案なのだ。このとき、副寮長はエゾガワのおっさんとキムラゴリラ。寮務委員会はレンコンと中核シンパほかラジカル勢のみで民青の姿はない。反対24というのがその時の北溟寮における民青の数字だろう。
◆コツチダが緊張のあまり、牛乳の紙バックの中に日本酒をいれてチュウチュウ飲みながら学長会見に臨んでいたのは80年の初冬11月のこと。
この時、「心理学ねえさん事件」《第十八夜 心理学会顛末参照》で傷心のマルヒは弘前を離れ・ひと月ほど東京へ逃避、高校の時の友達のところを転々としてした。なので学長会見の現場にはおらず、コツチダの日本酒チューチュー事件もヒムロのダウンジャケットが北鷹寮生の手でボロボロにされた事件も、見てはいないのだった。
◆おなじく80年12月、ヤマオカに寮長が交代するとともに、ムトーも「一年生ながら」寮務委員になっている。当時の記録によればジョン・レノンが暗殺された日すなわち80年12月8日には確かに評議会は開かれているが大学本部での座り込みの記述はない。そのかわり3寮合同寮務委員会という記載があり寮務委員であったムトーはそれに参加していた可能性が高い。
なにはともあれ、ムトーが書いた文章は当時の雰囲気をすっかり表していると思う。
◆《本部すわりこみ 夏の陣》は81年7月15日。シバハシが寮長のときの出来事。これも《2003年冬弘前紀行 武藤編③》に詳しい。
◆2016年、北溟寮は建物の躯体はそのままで完全個室・冷暖房完備の施設に変貌しました。《いつの日か》がきたのです。風呂場、食堂などがどのように運営されているかは不明。くたばっちまう前にいつかいって見なければなるまい。
《2021/6/20》