第三十二夜 つがる鵬溟会
名簿作成事始
ナオキさん
その頃、北溟寮の最年長寮生といえば、中核派のトヨタマさんではなく、それはワタナベナオキさんだったはずだ。
ナオキさんは、医学部の専門課程に在学中。早稲田を卒業して何年かたってから弘前大学の医学部にはいりなおした人だ。当時、どこぞの大学を卒業または中退して弘前大学にきている寮生は少なからずいたが、ナオキさんはそのなかでまさしく筆頭として指を折らなくてはいけない存在だった。
まことしやかに語られていたのは、教養部でドイツ語を教えている助手だかだれかが、ナオキさんのことを先生と呼んでいた、ということ。真偽のほどは定かでないが、ナオキさんは早稲田の独文を出た後、どこかの大学でドイツ語を教えていたのだといわれていた。当時すでに結婚されていたが、自立して仕事をしているという奥さんは東京にいて、ナオキさんだけいわば単身赴任のような形で北溟寮に生活していた。そんなナオキさん夫妻のライフスタイルのことを取材して取り上げた雑誌もあった。
1982年の2月も終わり頃だったと思う。1階のトイレで小便をしていたマルヒの隣に、たまたまそのナオキさんも立っていた。
『マルヒくん、寮生の同窓会とかつくるんだって?ボクもいれてくれよな』
それまで、まともにナオキさんと話したことがなかったマルヒは、そんなふうに声をかけられて、少しだけうれしくて、どこか、こそばゆかった事を思い出す。
鵬溟会
今、手元に残っているのはガリ版刷りの『1982年度 つがる鵬溟会 =北溟寮卒寮生名簿=』である。この表紙裏に以下の事が書いてある。
『卒寮生は毎年でるものの、ちりぢりばらばらになるのが寮生の宿命であった。ところが、去年、古田土亮氏らの提唱によって、この鵬溟会が結成された。いまだその活動は名簿作りだけに終わっているが、今後は、様々な方向性をもって、会員の親睦をはかってきいきたい。よくわからんけど。』
なにあろう、これを書いたのはわたし自身である。マルヒが82年度(すなわち83年3月卒業期)に作成した名簿に書いているのだ。
さかのぼること一年。82年の2月。マルヒと同期で入寮した者たちが四年の夢(よとせのゆめ)を終え卒寮の時期をむかえていた。なかにはコツチダのように、ほんとに4年で卒寮か?という男もいたし、テラシマのようにごく順調にまじめに大学4年を終え、就職していくような男もいた。
また、マルヒのように当然のごとくもう1年、弘前の地で過ごす事を決めている連中もいた。
我々78年入寮組はとりわけ元気のいい年次だったのかもしれない。もともと、追い出しコンパは各階ごとに行われて、全寮の行事ではなかった。しかしこの年、だれかが言い出しっぺになって、全寮の卒寮生が食堂に集まって各階の追いコンとは別に、「別れを惜しむ会」が開かれた。(参照 画像資料館1981年度「今生の別れ2」)
その場でいいだされたのが同窓会を組織する、ということだった。
旧制の昔はいざ知らず、当時の北溟寮には卒寮した後の組織というものがなかった。それを淋しくおもった我々は、じゃ、そんなのを作ろうか、と衆議一決したものだ。とはいえ、すぐに活動といってもなにをやっていいのやら、当時は思いつかなかった。ただ名前をつけないと格好がつかない、しかし、この晩は結論がでない。候補は『津軽しがらみ会』、それじゃああんまりだろ、ということになって後日、コツチダが考えた『津軽鵬溟会』という名前にしたのだ。
1983年の3月にだした名簿(82年度版)は、留年組のマルヒとユーキとイタモトがガリ切りをした。名簿のあまりスペースには次のような記述もある。
『「横山さんカンパ」のお願いに便乗して、去年の卒業生のところに「現住所」と「近況報告」のお願いをだしたのであるが、帰ってきたのはわずかに2名であった。(ちなみにその偉い人とは斉藤カズミ氏とシュドー孝志氏である)事務局としては、八方手をつくして新住所の把握につとめたが、それにも限界があった。そこで現住所の確認できない人の分については去年の名簿によって実家のほうに送ることになる』
つまり、マルヒの手元にはないが、1981年度版、すわなち82年3月発行の名簿がある、ということのようだ。(この辺り、まったく記憶がない)
その後の鵬溟会
その後この『鵬溟会』、東京で一、二回、同窓会を開いたことがある。毎回20人くらい集まったが、それっきりで立ち消えになった。
一方、名簿づくりのほうはこの後何年かは継続されたと思われる。マルヒの手元にあるもうひとつの名簿はいまは亡きヤマオカの手になる83年度版(84年3月発行)である。
以下はやはり表紙裏にあるヤマオカの文章である。
『毎年、北溟寮からバラバラに翔いていった卒業生を一つにまとめようと、一昨年、古田土亮氏らの提唱によって結成された鵬溟会も今年で3年目を迎えた。が、未だその活動は名簿作りだけに終わっている。83年暮には OB40数名が一堂に会して、北鷹寮OB会の結成式が行われたようだ。別に、これに対抗するわけではないが、今後の方向性としては、北溟寮OB-鵬溟会のメンバーが一堂に会する機会を追求することが当面の課題となろう。まあ、北溟寮の気質からいって、いつのことになるやらわからんけれど……』
だれが現行の名簿を?
この名簿が今も続いている北溟寮の卒寮生名簿のご先祖である。
『つがる鵬溟会』を記した同窓会-名簿作成事業は、3、4年継続した後いつのまにかいったん廃れていったようだ。
しかし、どこの学年であるか、これを復活させた年代がある。彼らは多分、寮務委員会室かどこかにころがっていたどれかの『鵬溟会』の名簿を発見し、それを原型としてふたたび名簿を整備・作成したのだと思われる。
なぜなら現在発行されている名簿には、われわれの年代以前の名前はほぼ皆無に等しく、ほぼ『鵬溟会』の名簿に記載されている寮生あたりから名簿が始まっている。
卒寮生名簿の復活を担ったのはだれだろう?どこの年代だろう?心当たりのある人は掲示板などに書いてくれたらありがたい。
ふたたびナオキさん
ナオキさんは卒業後、聖マリアンナ医科大の精神科でお仕事をしている、と聞いている。マルヒは、いまだにあのトイレでの約束を果たしていない。もし、このウェブページをナオキさんが見ることがあったらうれしく思う。
(March 1, 2002)
◆もともとは大々的なOB会を組織しようという意図から始まったが やはりというか、竜頭蛇尾に終わったのが溟寮らしいといえば溟寮らしい。
◆でもさ、もう定年の域に達した面々がまた第二次鵬溟会とか結成したら面白いかもね。
◆ナオキさんは聖マリなどを経て今ではメンタルホスピタルかまくら山の名誉院長となっているようです。
《2021/5/14》