第三十一夜 雪
津軽の冬
日本シリーズ最終戦
1979年11月4日の日曜日、大阪はミナミにあった大阪球場では広島-近鉄の日本シリーズ第7戦が戦われていた。この試合に勝利したほうは日本一、どちらにとっても球団史上初の快挙となる。
すでに試合が大詰めを迎えた9回裏、一点を追う近鉄の攻撃が始まった。ここでマウンド上にいたリリーフエースは自ら無死満塁、絶体絶命のピンチを招いてしまう。
しかし、この場面でまず一人目を三振。次打者の2球目、投球モーションの最中にスクイズを見抜きカーブの握りからウェストボールを敢行、三塁走者をしとめる。さらにバッターを三振に。
広島カープ、初優勝の瞬間だ……それはまた『江夏の21球』として知られる神話誕生の瞬間でもあった。
実は、このとき本州のはずれの青森県弘前市にある弘前大学では学祭がおこなわれていたんです。…で、マルヒはというと、この日本シリーズを人文学部の前あたりでラジオで聞いていたわけ。雪が舞うなかで。
これが記憶に残る弘前での初雪。この年、弘前地方の初雪は11月4日に降ったのだ。
津軽の雪
太宰治の名作『津軽』の劈頭には(東奥年鑑より)という引用出所とともに「津軽の雪」なるものが列記されている。
津軽の雪
こな雪
つぶ雪
わた雪
みづ雪
かた雪
ざらめ雪
こほり雪
マルヒは信州の生まれ育ちなので、雪なんか珍しくなかったんじゃない、と思われる人もいるでしょうが、松本を含む信州の南半分は表日本気候にあたり、真冬になると晴れ渡った青空のもとキンと音がしそうな厳しい寒さばかりで、あまり雪は降らない。だから、雪国・弘前の暗い冬はただ珍しかった。
北溟寮に住む寮生でも、北海道・東北の日本海側、雪が多く降る地帯からきた連中は、こんな冬、雪をただ鬱陶しく思っていただけに違いない。弘前の冬は、なにせ、弱々しい太陽の光を見ることすら一週間に数時間、などというありさまだったから。
でも高校山岳部で雪に親しんだマルヒにとっては街に降る雪は憧れでもあったのだ。浪人時代に親しんだある本にこんな言葉があった。
「ぼくはいつも思うのです。ぼくの好みからいうと、雪の無い冬の生活が人世にとってどんなに淋しいものかと。東京でどんなに酔い痴れていても、こんな所なら死んでもいいなアと思う場所はないのですが、サッポロの雪の夜を歩くと、奇体にこのまま横に倒れてしまいたいような衝動にかられることがあるのです」
弘前ではなくサッポロであるのがちと淋しいが。(なお、この本は上田哲農という人の『日翳の山 ひなたの山』のなかの一節。彼は、第二次RCC同人のクライマー、また画家であった人だ。なんども繰り返して読みたくなる本はそうない。これは私にとって大切なそんな一冊でもある。)
夜ひとり電気を消した寮の部屋から窓の外に降り続ける雪を眺めること、これはマルヒが憧れたことであり、弘前で実現した夢のひとつだった。
青森県のウィンタースポーツ
これほど雪が降る青森県であるが、その割にはスキー場といえば大鰐(おおわに)、雲谷(もや)くらい。大鰐温泉スキー場は西弘前の駅から弘南鉄道に乗れば小一時間程度でいけることもあって、土曜日の午後とかにでかけたこともあった。
ところが名前が有名なわりには、リフトが1本+1本。値段は覚えていないが、ハサミで改札する大型切符のような回数券(8回券だったか?)しかなかった。ゲレンデも変化に乏しく信州のスキー場に慣れていたマルヒにとっては満足できるものではなかった。
またスケートにいたっては津軽藩の領土のなかには存在しなかったのではないか。南部のほうだと寒いわりには雪が降らないのでスケートが盛んであったに違いない。
カマクラ研究会
1階生有志に集合をかけてカマクラを作ったことがある。
カマクラ研究会と称した。テーマソングは鉄人28号の節で、
♪カマ研、カマ研、どこへいくぅぅ
雪がたっぷり積もった2月。試験のことなどお構いなしに寮の前庭でカマクラづくりを楽しんだ。まずは肩を組んで踏み固めるところから。そのうえに人の身長ほども雪を積み上げ、中を掘り抜いていく。できあがったカマクラの中まで、112号室あたりから電源コードをのばし、電熱ヒーターをつかって鍋をした。夜が深まるにつれ、寮に戻ってくる寮生がひとり、またひとりとのぞき込んではカマクラに寄り、一杯やっていった。
2階から
北大の恵迪寮では雪のシーズンに窓からダイブする、という行事があったそうな。しかしあの時の彼はそんな事を知っていたのか、知らなかったのか。
ある冬の夜。その時も窓の下には1.5メートルほども雪のふきだまりができていた。突然流れる寮内放送。
『ただいまより、3階の××くんが、2階の窓よりダイブを試みます』
玄関の前に野次馬寮生がだんだん集まってくる。窓から心配そうに眺めている者もいる。
そんななか、彼は2階の流し場の窓に姿を現したかとおもうと、頭から飛び降りた!すかさず、くるりと一回転。見守る寮生からやんやの喝采をうけたものだ。
雪の日のクルマ
寮生は偉そうなことはいっても雪かき・雪下ろしなどという労働はする必要がない。しかし、とはいえ、雪国に住むことのたいへんさは、住んだことのある人しか想像できないでしょう。
そうですねえ、例えば一晩中降り続いた次の日の朝、寮のロータリーわきに駐車してあった車にA君が乗るにはどうすればいいか書いてみましょうか。
まだ雪が降り続けるなかA君が玄関をでると、こんもりとした雪の塊が目につきます。もちろんこれがA君の愛車です。全体に50センチほど積もってることでしょう。なにせその車に行き着くまでに膝まである雪の中を歩いて行かなくちゃいけない。もちろんスコップが必要です。この車の周りの雪をかきだすのには。
一生懸命雪をかいていると、A君の体は、ほら、もう暖まってくる。A君、ドアにキーを差しこめましたでしょうか?ここに雪が詰まるとお湯でもかけないとキーが入らなくなりますぜ。
こうしてドアが開いたらエンジンオンです。だめだめA君、まだワイパーなんかかけちゃ。まずはヒーターをデフロッガーにしてめいっぱい。それから、もういちど車外にでて三角形をしたスクレーパーでカリカリ、カリカリと氷をこそげ落とさないと。
もちろんスノー&スパイク(当時。今ならスタッドレスか)をはいてるでしょうね。これからチェーンをはくなんてことだけは、許してください……。
こうまで苦労してクルマに乗るべきか?答えはイエスだな。普通。なにせこの時季、バイクはもう乗れなくなっている。よほどの酔狂以外は雪の道を歩くのはいやになってしまうくらい雪が降るのだ。
ナトリウムランプと吹雪
そのよほどの酔狂の話。
土淵川にかかる橋のたもとには黄色いナトリウムランプの街灯があった。吹雪の夜、酔っぱらってそこを歩くとき。ナトリウムランプがぼんやりと、激しい風雪のなかに浮かぶ。風の音がしていたはず。でも、いくら思い出してもその記憶からは“音”というもの脱落している。雪のむこうには霏々として降る雪。そのむこうにも、そのまたむこうにも。目をとじれば今でもその光景が浮かんでくる
岩木川の堤防を吹雪の日に歩いたことがある。いったいどうしてそんな場所を歩いていたのか、全く覚えていない。しかし、吹雪の午後、岩木川のすぐそばを一人で歩いていたのは確かだ。
横殴りの雪はコートのポケットの中にまではいりこんで、手袋をしていなかった手の感触まで消えた。
いったん風が強まると視界が全て雪に覆われた。
いつまで歩いてもどこにもたどりつけないような気がしていた。
(Feb. 12 2002) 【追記 Feb. 2003 改稿】
◆スキーにもあまり行かなくなって、いま、雪といえば都会の薄汚れた雪だけ
《2021/5/30》